篠塚和典が語る「1980年の巨人ベストナイン」(2)

江川卓 後編

(中編:伝説の球宴8者連続三振 9人目にカーブを投げた瞬間、篠塚和典は「嫌な予感がした」>>)

 篠塚和典氏が語る江川卓氏のエピソード。最後となる後編では、グラウンド外での江川氏との交流や、江川氏が引退した時の篠塚氏の思いなどを聞いた。

篠塚和典が振り返る、江川卓が引退を決意した一球「小早川毅彦に...の画像はこちら >>

【江川から「シノ、いつも悪いね」】

――練習や試合以外で、江川さんと交流する機会はありましたか?

篠塚 現役時代は野手とピッチャーなので交流はあまりなかったのですが、引退してお互いが解説者になってからは、東京ドームで会ったりした時に少し会話をすることはありました。最近で一番話したのは、江川さんのYouTubeチャンネル(『江川卓のたかされ』)に出演させていただいた時ですね。

 ユニフォームを脱いでから久しぶりの対談でしたし、あれだけ長い時間話したのは現役時代もありませんでした。自分が中学生の時に初めて高校生(作新学院/栃木)の江川さんを見て思ったことや、自分が高校生(銚子商/千葉)になって対戦して感じたこと、プロ入りしてチームメイトになってから感じたことなどを話したのですが、ものすごく懐かしかったですね。

――篠塚さんは1980年代の巨人ベストナインを選んだ際に、「江川さんは、どの年代を含めても最高のピッチャー」と選考の理由を話していましたが、江川さんもそのことを知っていましたか?

篠塚 いろいろなメディアの取材で聞かれ、その度に「最高のピッチャーは江川さん」と答えていたからか、本人の耳にも入っていたみたいです。「シノ、いつも悪いね。俺の名前を出してくれて」と言っていましたよ(笑)。



――YouTubeチャンネルでは、選手時代に話せなかったことも話せましたか?

篠塚 そうですね。「セカンドからマウンドにいる俺を見ていてどう思ってた?」と聞かれたり、「シノがセカンドを守っている時は、本当に守備に助けられたよね」と言ってもらったり......あぁ、そういう風に思っていてくれたんだなと。懐かしく貴重な時間を過ごさせてもらいました。

【篠塚から見た江川の引退】

――江川さんの現役生活はわずか9年で、引退した時は32歳でした。晩年は右肩の故障で苦しみながらも、最後のシーズンとなった1987年には13勝を挙げています。江川さんの引退をどう思われましたか?

篠塚 正直、やめるとは思いませんでしたね。でも、その何年か前から肩を痛めたり、体の不調も多少あったので。

やっぱり球の速いピッチャーは肘や肩への負担が大きくて、早く消耗してしまうのかなと。それと、高校からストレートでプロ入りすればもう少し長くできたかもしれませんが、江川さんの場合、法政大学やアメリカの南カルフォルニア大学への野球留学も経てプロ入りしましたしね。

 やめる、やめないは本人が決めることで、そこに至った理由は他人にはわからないこと。本人にしかわからない苦しみがあったでしょうし、もがいて、考え抜いた上で限界を感じて決めたことだと思います。「こればっかりは仕方がない」という思いでした。

――それでも、現役をもう少し続けてほしかった、という思いはありますか?

篠塚 続けてほしかったですよ。
ただ、高校時代から酷使してきた肩の状態が相当よくなかったのかなと。あと、広島戦で小早川毅彦にホームランを打たれたこと(1987年9月20日の広島戦で小早川に2本のホームランを打たれた)が引退を決断する引き金になったと言われていますが......2本目を打たれた真っ直ぐは、江川さん本人はある程度自信を持って投げた球だったはずです。

 それを打たれてしまったということで、自分の球に関して何かを感じたんでしょうね。「自分の球はもう死んでしまったんだ」という感じだったんじゃないかと。感情的な面を考えれば、小早川にあのホームランを打たれていなければ、たぶん現役をもう少し続けていたと思いますよ。

――中学生時代に初めて見た江川さんのピッチングに衝撃を受け、その後、巨人のチームメイトとして共闘された江川さんは、篠塚さんにとってどういう存在でしたか?

篠塚 高校時代、対戦相手として「江川さんの真っ直ぐをうまく打つためにどうすればいいか」と考えたところから、自分のバッティングスタイルの模索が始まったので、江川さんは「自分のバッティングを作ってくれたピッチャー」と言えます。
"昭和の怪物"と呼ばれるピッチャーはたくさんいたかもしれませんが、江川さんは間違いなくその代表格ですし、そう呼ばれるに相応しい成績を高校時代から残しています。

【松坂とも「まったくモノが違う」真っ直ぐ】

――江川さんの高校時代は驚異的な記録が目白押しです。代表的なものでいうと、3年の夏の栃木大会では5試合(44イニング)に登板して被安打が2で75奪三振。5試合とも完封で、そのうち3試合がノーヒットノーラン。1973年のセンバツでマークした1大会での最多奪三振記録(60個)は今も破られていません。

篠塚 「何かの間違いじゃないの?」と思ってしまうくらいの成績ですよね。

桑田真澄(元巨人など)や松坂大輔(元西武、レッドソックスなど)、ダルビッシュ有(現パドレス)、田中将大(現楽天)、大谷翔平(現エンゼルス)とか、いろいろなピッチャーが甲子園やプロで活躍してきていますが、高校時代の江川さんの成績は圧倒的ですし、プロ9年間で135勝(72敗)というのもすごいです。

――"平成の怪物"と呼ばれた松坂さんが横浜高校で春夏連覇し、夏の決勝で史上2人目となるノーヒットノーランを達成した時も、「高校野球にひとりだけプロ野球選手が混ざっている」と評されることがありましたね。

篠塚 確かに、松坂も高校生離れした球のキレと強さがありましたが、江川さんの真っ直ぐはまったくモノが違うと思います。「バットに当てることすらできない」と言われていたわけですから。

 それと、松坂の場合は球種が多く、真っ直ぐを待たせておいてスライダーなどの変化球で三振を取ったりしていましたが、江川さんは真っ直ぐとカーブだけ。2つの球種であれだけの成績を残すのは尋常ではありません。


――仮に江川さんが巨人ではなく別のセ・リーグのチームにいたら、篠塚さんの通算成績にも影響を与えていたと思いますか?

篠塚 相手チームにいたとしたら、それはそれで打つための研究や技術の追求をしていたとは思います。でも、江川さんが味方でよかった、対戦せずに済んでよかったとはハッキリ言えますよ(笑)。

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。