当事者が振り返る2005年の日本シリーズ

【第1戦】ロッテ10-1阪神

ロッテ・清水直行(2)

(第1回:清水が「阪神にとって少し不利だった」と思うこと>>)

 ロッテと阪神が相まみえた2005年の日本シリーズ。結果は4勝0敗とロッテが圧倒して日本一に輝き、4戦の合計スコア「33-4」という言葉がインターネット上で生まれ、多くの野球ファンの間に広まるなど記憶に残る日本シリーズになった。



 同年、それぞれのチームのリーグ優勝に貢献した清水直行氏(元ロッテ)、関本賢太郎氏(元阪神)が、当時の状況や心境をそれぞれの立場で振り返る短期連載。清水氏に聞くエピソードの第2回は、日本シリーズ史上初の「濃霧コールド(7回裏1死)」となった初戦での阪神打線に対する攻め方、「乗っていけた」という西岡剛のプレーなどについて聞いた。

阪神との日本シリーズ初戦でまさかの濃霧コールドの結末 先発し...の画像はこちら >>

【ミーティングで「インサイドいくよ」】

――清水さんは2005年の日本シリーズ第1戦で先発されましたが、この年の阪神打線をどう見ていましたか?

清水直行(以下:清水) 今岡真訪(当時の登録名は今岡誠)さんが150打点近く(147打点)挙げていて、4番の金本知憲さんはホームランを40本打っていましたし、中軸が強烈でした。赤星憲広も毎年盗塁を量産してバリバリ活躍していた頃でしたし、「攻めていかないと抑えられない」と思っていました。

――攻めのピッチングを意識していた?

清水 そうですね。あと、「僕の経験が生きたな」と思うのは、この年のレギュラーシーズンではカードの頭をよく任せられていたことです。シーズンの開幕戦を含め、3連戦や6連戦のカードの頭で投げる機会が多かった。

そんなカードの頭を投げるピッチャーは、「相手チームのバッターを崩す役割」があるんです。

 例えば、インサイドを意識させることもひとつです。シーズン中でもそういうことはありましたが、阪神との日本シリーズでも、コーチ陣やピッチャー陣、スコアラーなど全員が参加したミーティングの時に「インサイドいくよ」と。阪神のほとんどのバッターに対してインサイドを攻めていくことを決めていました。

 桧山進次郎さんや(アンディ・)シーツにはポンポンと打たれてしまいましたが、金本さん、今岡さん、片岡篤史さんといった打線のキーマンを、インサイドを意識させて抑え込めたのはよかったかなと。阪神打線は強力ですし、「インサイドにいかなきゃやられる」いう印象があったので、最初に投げる僕がそれを意識づけしなければいけない、という思いがすごくありました。

――シーズン中からそういうことが多かった?

清水 「このバッター相手にはここに投げよう」という決めごとは、シーズンでもけっこうありました。西武の和田一浩さんや(アレックス・)カブレラにはここ、ソフトバンクの松中信彦さんや城島健司ならこっち、といったように、けっこう偏った攻めをしていました。そういう習慣が日本シリーズで生きましたね。

 そこまで徹底するようになったのは、2004年にボビー(・バレンタイン監督)が監督になってからですね。ガラッとデータ重視に変わったんです。「相手にウイークポイントがあるなら、そこを徹底して攻めていこう」と。

ボビーもたまにミーティングに参加して、みんなでデータを共有していたので、打たれた後に「なんでそんなところに投げたんだ?」と首脳陣から問われるようなこともなく、安心して投げていました。

――第1戦は初回に先頭打者の赤星さんを四球で出してしまいましたよね。赤星さんの足は戦前からかなりマークしていたと思いますが、結果的には盗塁させませんでした。やはり、それが大きかった?

清水 赤星は四球で歩かせてしまいましたが、2番の鳥谷敬をすぐに追い込めましたし、3球で三振をとれました。そこで赤星を二塁に行かせなかったということ、次の3番シーツにはレフト前にヒットを打たれたのですが、一・二塁で止まったことが大きかったです。赤星に盗塁を決められていたら、シーツのヒットで一・三塁、もしくは赤星の足ならホームに還られた可能性もあります。
仮にそうなっていたら、試合の流れは変わっていたかもしれません。

――鳥谷さんの2球目で赤星さんがいいスタートを切っていましたが、鳥谷さんがバットを出してファウルになりましたね。

清水 僕はバッターと勝負するのがけっこう早かったので、それが功を奏した場面だったのかもしれません。

 もともとは球数が多いほうだったのですが、球数を減らさないと完投できません。なので、僕は2003年くらいから「1球ボールを見せて......」ということをやめて、ピッチャー有利なカウントで早めに勝負していくピッチングスタイルに変えたんです。一方、当時のセ・リーグの野球はちょっと違ったと思うんです。
「ここは1球、ボール球を挟んで」といった攻め方が多かった。

 鳥谷は2ストライクからスプリットのボール球を振ってくれて三振。次のシーツには、1ボールからインサイドへの真っ直ぐをレフト前に打たれました。4番の金本さんには1球目に真ん中の真っ直ぐでストライク。2球目に投げたインサイドの真っ直ぐがファウル。3球目に鳥谷への攻め方と同じようにスプリットを投げました。



 それがちょっと浮いてしまって当てられたのですが、センターに抜けそうなゴロを西岡剛がうまく捕ってくれてダブルプレー。そういう各打者への攻め方を見て、阪神側は「勝負が早いな」「"遊び"はなしか」という印象を持ったと思うんです。

――鳥谷さんは赤星さんが走るのを待つ選択肢もあった場面ですが、バットを出していったのは「勝負が早いな」という心理が働いていたからかもしれませんね。

清水 この試合で先発マスクをかぶっていたサト(里崎智也)も僕も、共通認識は「先に追い込んだもん勝ち」なんですよ。ボール気味で振ってくれる可能性がある高目から入ることはあるかもしれませんが、いきなりボールから入る必要はないし、基本的には「1ストライクスタート」が理想だと思っているので。そういう攻め方に、セ・リーグのチームは慣れていなかったような気がしました。

【日本シリーズ初の濃霧コールド】

――金本さんのゴロを捕った西岡さんは、セカンド寄りのいい位置に守っていましたね。

清水 ああいうポジショニングは剛ならではですよね。それほど強い打球ではなかったので、剛なら捕ってくれるとも思っていました。剛もそうですし、小坂誠さんもそうですが、当時のロッテの二遊間の守備は硬かったので信頼していました。いずれにせよ、打球が抜けてタイムリーになるのと、ダブルプレーでゼロに抑えるのとでは全然違いましたし、剛のプレーで乗っていけた部分はありましたね。

――その直後の1回裏、2番に抜擢された今江敏晃さんがソロホームランを放って、ロッテが先制しました。

清水 ゴリ(今江の愛称)のホームランも大きかったですが、トップバッターの剛がめちゃくちゃ粘ってくれましたからね。結果は三振でしたが、(阪神の先発の)井川慶に球数を投げさせていて、「なんや、こいつら」といった印象を持たせられたと思います。第1戦は1番が剛で2番が今江でしたが、この2人はシーズンを通じて"怖いもの知らず"という感じでしたし、この試合に1、2番で起用したことがハマりましたよね。

――第1戦のトピックスといえば、やはり "霧"。ロッテは7回裏、里崎さんとベニー・アグバヤニのホームランで突き離して10-1と大量リードを奪いましたが、その頃に球場全体を濃い霧が覆って、試合が中断することになりました。ボールは見えていましたか?

清水 5回、6回あたりから徐々に霧が濃くなっていったのですが、本当にボールが見えませんでした。霧というよりも煙っぽかったんですよ。球場のすぐ横が海岸ですから、誰かがそこで焚き火をしたとか、何かを燃やした煙が入ってきているのかと思っていました。

――それまで、あれだけの霧が千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)で発生することはありましたか?

清水 いや、僕の記憶ではないですね。マリンスタジアムは基本的に風があるので、煙などが空気中に滞留しませんが、あの日はほぼ無風でしたから。あと、10月の後半(第1戦は2005年10月22日)にマリンスタジアムで試合をすることがありませんでしたから、季節的な要因もあったのかもしれません。

――結局、7回裏1死の時点で濃霧によるコールドゲーム(日本シリーズ史上初)に。清水さんは7回完投で勝利投手となりました。

清水 僕はシーズンでもそうですが、基本的に長い回を投げるのが自分の仕事だと思っていたので、この試合で投げた投手が僕だけだったのはよかったです。ただ、短期決戦はシーズン中の試合と雰囲気が違うので、ピッチャーは早い段階で少しでも投げて「雰囲気に慣れておきたい」という気持ちもある。なので、僕自身だけのことを考えるとよかったですが、以降の試合での他のピッチャーのパフォーマンスにどういう影響があったのかはわからないです。

(阪神・関本賢太郎のエピソード2:阪神は「気象条件にも見放されたか」勝負のポイントは「5回の攻防にあった」>>)

【プロフィール】
清水直行(しみず・なおゆき)

1975年11月24日に京都府京都市に生まれ、兵庫県西宮市で育つ。社会人・東芝府中から、1999年のドラフトで逆指名によりロッテに入団。長く先発ローテーションの核として活躍した。日本代表としては2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲得し、2006年の第1回WBC(ワールド・ベースボールクラシック)の優勝に貢献。2009年にトレードでDeNAに移籍し、2014年に現役を引退。通算成績は294試合登板105勝100敗。引退後はニュージーランドで野球連盟のGM補佐、ジュニア代表チームの監督を務めたほか、2019年には沖縄初のプロ球団「琉球ブルーオーシャンズ」の初代監督に就任した。