アントニオ猪木 一周忌

佐山聡が語る"燃える闘魂"(2)

(連載1:佐山聡が明かす最後の会話 「会えて幸せでした」に猪木はただ黙ってうなずいた>>)

 10月1日で一周忌を迎えた、"燃える闘魂"アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至/享年79歳)。その愛弟子で、初代タイガーマスクの佐山聡が、猪木さんを回想する短期連載2回目は、猪木さんの付け人時代の秘話と、その中で学んだこと、そして猪木イズムの原点について明かした。

アントニオ猪木が「町でケンカしてこい!」 佐山聡がある弟子へ...の画像はこちら >>

【私生活では優しかった猪木さん】

 1975年に新日本プロレスに入門し、翌年5月28日にデビューした佐山は、ほどなく猪木さんの付け人を務めた。仕事は、師匠の身の回りのすべての世話をすること。地方巡業に出れば、スーツケースに入れるタオル、試合用タイツ、靴などを整理整頓。試合を終えて宿舎で入浴する時は背中を流し、食事の時は給仕をする。もちろん、練習時はサポートする。

 寝ている時以外の時間をすべて捧げる付け人は、傍目から見れば心身ともに苦労が絶えない生活に見えるかもしれない。だが、佐山は微笑みながらそれを否定した。



「僕をはじめ、当時の新日本の若手は、みんな『猪木のためなら死ねる』という覚悟を持った選手ばかりでした。それほど心酔していた猪木さんのお世話をできることは、毎日が楽しくてたまらない日々でしたよ。

 僕も猪木さんのために徹底的に仕事をしました。そんな行動が認められたのか、最後は猪木さんの財布を僕が持って、食事する時やどこかに買い物へ行く時は僕が支払いをしていました」

 練習では徹底的に厳しい姿勢を貫いた猪木さんだったが、リングを離れるとまったく違っていたという。

「厳しいのは練習だけで、私生活はまったく厳しくありませんでした。僕は一度も猪木さんに怒られたことはありません」

 佐山にとって猪木さんは、子供のころから憧れの人だった。

新日本プロレスの門を叩いた後もその思いに変わりはなかった。付け人時代は、傍にいるだけで張りつめた緊張が続く毎日だったことだろう。

 しかし佐山は再び微笑み、そんな見方を「それは違います」と首を振った。

「付け人を務めて猪木さんから学んだことは、『他人に負担をかけない心遣い』です。付け人だから当然、師匠の前では緊張します。だけど猪木さんは、若手の僕に対しても必要以上に気を遣わせるような空気を出しませんでした。

だから、僕も自然体で仕事に没頭することができたんです」

 そう明かしたあと、佐山は付け人時代を回想するように目を細めて「本当に優しい人でした」と噛みしめるようにつぶやいた。

【ある弟子に「町でケンカしてこい!」】

 私生活では優しい師匠だったが、リングでは別人だった。練習でたるんだ選手がいれば"鉄拳"で気合を入れた。ただ、佐山は練習でも厳しい指導を受けたことがなかったようだ。

「これは、自分で言うと口幅ったい(くちはばったい/身の程しらずの偉そうな口の利き方)んですが......新日本の練習は厳しかったんですが、僕は入門した時からついていくことができたんです。その中で、他の選手が殴られる姿を見て、『ああいうことは、やってはいけないんだ』と学んでいきました」

 デビューしてから、試合について猪木さんに評価、指導されたこともなかったという。ただ、他のレスラーへの厳しい指導を見て、「"燃える闘魂"が理想とするプロレスラー像」を理解した。



「ある先輩レスラーに、猪木さんが『お前、町でケンカしてこい!』と言い放ったことがあったんです。その先輩は、道場のスパーリングも強いし、練習も真面目ですばらしい方でした。ただ、試合になると、その性格が災いしたのか会場が沸かないんです。猪木さんはその先輩に対して、『お前のプロレスより町のケンカのほうが面白い。お前はケンカの仕方がわかっていない』と指導しました。

 僕は、その言葉を聞いて『そうか!プロレスはケンカでいいんだ』と思いました。
『ケンカでいいんだったらリングの上で徹底的にやってやる』と決意したんです。それは、若手時代の僕にとって強烈な言葉でした。今も鮮明に覚えていますね」

 今の時代では「町でケンカしてこい」という指導が許されることはないだろう。"昭和"だから通用した教えかもしれない。その指導の是非は問わないが、「ケンカ」には抑えきれない本気の怒りが根底にある。猪木さんは「プロレス」を「ケンカ」に重ねることで、重要なのは本気の怒りと真剣な闘いであることを弟子に訴えたかったのだろう。


 プロレスとは、闘いである。佐山は「それこそが猪木イズムの原点です」と断言した。

「猪木さんがプロレスに闘いを追求したのは、やはり力道山先生から受けた影響だと思います。力道山先生の教えをまっすぐに受け止めた。猪木さんが、それほど純粋な人だったということでしょう。それと、プロレスを蔑視する世間への反発もあったと思います。『プロレスの市民権を取り戻す』と燃えていましたから」

【猪木さんの「1、2、3、ダァーッ」は誰もマネできない】

 プロレスに闘いを追い求めた猪木さん。後年になって佐山は、猪木さんが大衆の前でも、いつもどんな場所でも闘いを貫いていたことがわかったという。

「猪木さんは引退した後、いろんな場所で『1、2、3、ダァーッ』とやっていましたよね。あれは、僕もそうですけど、誰もマネできません。同じようなことをやる人はいますが、誰ひとりとして猪木さんのような『ダァーッ』をやる人を見たことがありません。

 たぶん、猪木さんにとってはあの『ダァーッ』も、闘いだったんだと思います。あそこまで貫ける人は猪木さんだけ。そして、それが『猪木イズム』です」

 猪木さんは「プロレスこそ最強」を標榜した。佐山は、その姿勢に共鳴して新日本に入り、プロレスラーとなった。猪木さんの背中を追いかけて「強さ」を追求すべく、佐山は道場での練習に加えてキックボクシングのジムに通い始める。この行動が、猪木さんと佐山の距離をさらに縮めることになる。

(連載3:猪木から「お前を第一号の選手にする」佐山聡が振り返る「一生忘れられない」言葉>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。