アントニオ猪木 一周忌

佐山聡が語る"燃える闘魂"(4)

(連載3:猪木から「お前を第一号の選手にする」佐山聡が振り返る「一生忘れられない」言葉>>)

 10月1日で一周忌を迎えた、"燃える闘魂"アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至/享年79歳)。その愛弟子で、初代タイガーマスクの佐山聡が、猪木さんを回想する短期連載4回目は、デビュー2年目で挑んだキックボクシングの試合での実験、試合後の猪木さんの言葉、その後に「本当にガッカリした」という指令について明かした。

佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦もア...の画像はこちら >>

【キックボクシングの試合での「実験」】

 1977年、猪木さんから「お前を(新日本プロレスの)格闘技部門の第一号にする」と伝えられた佐山は、同年11月14日に日本武道館で行なわれた、漫画原作者・小説家の梶原一騎氏が主催した大会「格闘技大戦争」に参戦した。

 対戦相手は全米プロ空手(マーシャルアーツ)ミドル級1位で、16戦14勝(11KO)2敗の戦績を残していたマーク・コステロ。2分6ラウンドのキックボクシングルールだった。プロレスデビュー2年目の佐山は、初めてのキックボクシングでの試合に、緑のショートタイツとボクシンググローブを着用して臨んだ。

「猪木さんから『お前を格闘技の第一号にする』と指名された延長で、キックボクシングの試合をやったんですよ」

 リングサイドで猪木さんが観戦した一戦で、佐山は練習の中で抱いていた「相手がキックボクサーだった場合、タックルに入れるのか」という考えを実践することを決めていた。

「ルールはキックボクシング。目白ジムで練習はしていましたが試合をやったことはないですから、周囲の人たちは『100パーセント勝てるわけがない』と言っていました。

だけど、僕の頭の中にあったのは、自分が練習を重ねてきた『レスリングのタックルが通じるかどうか』ということ。だからキックの試合というより、新しい格闘技の試合だと思ってリングに上がりました」

 当時、19歳の佐山はキックボクシングの目白ジムに通い始めてから1年足らず。そんなキャリアで、実績があるコステロにキックボクシングのルールで勝つのは至難の業だ。そんな過酷な状況で、佐山は「立ち技系の相手にタックルが通じるか」という実験を行なったのだ。

「前にも言いましたが(連載の第3回)、僕が目白ジムへ通ったのは『どうやったらキックボクサー相手にタックルに入れるか』を研究することが目的でしたから、コステロ戦はその実践の場でした。

 試合前、極真空手の添野義二先生には『お前、勝てるわけがないのになんでこんな試合をやるんだ?』と言われたんですけど、僕は『相手をタックルで捕まえて、投げて頭から落として勝ちます。

反則を取られますが』という話をしましたね。それくらい僕の中では、タックルが通じるかどうかしか頭にありませんでしたし、玉砕覚悟の闘いでした」

【反則連発の敗戦にも、猪木は「よくやった」】

 運命のゴング。佐山は、胸に秘めた思いをすぐに実行に移す。

 コステロの懐に入ってフロントスープレックスのように投げ、さらにはバックドロップも敢行した。佐山はタックルでコステロを捕獲し、投げも成功。しかし、当然それは反則で、減点こそ取られなかったが、投げが決まった後にレフェリーが即ブレイクした。

「タックルも投げも反則です。

ただ、そこは重要じゃなくて、繰り返しになりますが、タックルで相手の中に入れるかどうかが問題だった。タックルに入るには、相手のパンチとキックをかいくぐる必要がある。だけど、入れる自信はあったし、実際にタックルから投げてコステロを頭から落とすことができました」

 打撃系の相手にタックルして投げるという佐山の実験は、現在の総合格闘技につながる「新しい格闘技」の息吹だった。しかし試合は2ラウンド以降、最終6ラウンドまで毎回ダウンを奪われる展開になり、判定で敗れた。

「試合後に、ある人から『お前、だらしねぇな』と言われましたよ」

 確かに試合には敗れた。ただ、「タックルが通じるかどうか」という佐山の実験は、完全ではなかったかもしれないが成果を上げた。

そんな佐山の思いを理解しない、心ない言葉に19歳の若者は傷ついた。

 そこに希望の光を灯したのは、試合を観戦した猪木さんの言葉だった。

「よくやった」

 猪木さんは、敗れはしたものの玉砕覚悟で闘った佐山を褒めたたえたのだ。

「この試合前に、猪木さんから特別に言葉をかけられることはありませんでした。だけど試合後は『よくやった』と褒めていただきました。『猪木さんは僕がやろうとしていたことをわかってくれていたんだ』と、ものすごく嬉しかったですね。

あのひと言が、格闘技をやろうとしていた僕にとって希望になったんです」

【「本当にガッカリした」メキシコ行き】

 師匠の言葉に勇気をもらい、新日本の「格闘技部門の第一号選手」になるべく格闘技の技術を磨いた佐山だったが、思いとは正反対の修業を命じられることになる。デビューから2年が経過した1978年6月に、メキシコへの遠征を指示されたのだ。

「ルチャ・リブレ」と呼ばれるメキシコのプロレスは覆面レスラーが主流で、試合は空中殺法を軸に展開される。言わば「格闘技」とは真逆の「プロレス」独特の世界だった。

「表現は悪いんですが、僕の中でメキシコ行きは"島流し"だと思いました。これは、本当にガッカリしましたね」

 このメキシコ行きは、事実上、佐山を「格闘技部門の第一号」にするという約束が消えたことを意味していた。

同時に、日本を離れたことで猪木さんとの距離も当然のように遠くなった。

 失意のメキシコ行きだったが、類まれなる運動神経とプロレスセンスを持つ佐山は、メキシコで「練習はしませんでしたけど、見様見真似で」難易度の高い空中殺法をいとも簡単にリングで表現。「ルチャ・リブレ」の世界でも人気を獲得した。

 そして1980年にはイギリスに拠点を移し、リングネームも「サミー・リー」と変え、トップレスラーに君臨した。

「ずっと、イギリスで試合をやっていきたいと思っていた」

 そう考えていた佐山の元に、1981年4月、日本から"帰国指令"が届いた。内容は、覆面レスラーの「タイガーマスク」への変身。何度も拒否したが、専務取締役を務めていた新間寿氏の説得に折れ、「タイガーマスク」として帰国することを決断する。

1981年4月23日、蔵前国技館で虎の覆面をかぶった佐山は、ダイナマイト・キッドと対戦してジャーマンスープレックスホールドで勝利する。鮮烈なデビュー戦によって、人気は瞬く間に日本全国に広まった。

 そんな空前のタイガーマスクブームの渦中で、佐山が意識していたのは「アントニオ猪木」の視線だった。

(連載5:猪木の苦境にタイガーマスク時代の佐山聡が抱いた思いと貫いた「ストロングスタイル」>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。