アントニオ猪木 一周忌

佐山聡が語る"燃える闘魂"(6)

(連載5:猪木の苦境にタイガーマスク時代の佐山聡が抱いた思いと貫いた「ストロングスタイル」>>)

 10月1日で一周忌を迎えた、"燃える闘魂"アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至/享年79歳)。その愛弟子で、初代タイガーマスクの佐山聡が、猪木さんを回想する短期連載。

最終回となる第6回は、人気絶頂でタイガーマスクを辞めた経緯、新たな格闘技の創設、「猪木イズム」を語り継ぐ覚悟を明かした。

佐山聡が語るタイガーマスクを辞めた真相「猪木イズム」を原点に...の画像はこちら >>

【人気絶頂でタイガーマスクを辞めた理由】

 佐山が覆面をかぶった「タイガーマスク」は、人気絶頂の1983年8月に電撃引退した。引き金となったのは、新日本プロレスで起こった内紛だった。

 ある新日本の先輩とフロント幹部が中心となり、猪木さんが運営していたブラジルの(※)「アントン・ハイセル」に、新日本の利益が流用されている疑惑を追及。猪木さん、副社長の坂口征二氏、専務取締役の新間寿氏の3人を追放しようとした。後に「クーデター事件」と呼ばれるこの騒動が、佐山に新日本からの退団を決意させた。

(※)猪木さんがブラジルで興したリサイクル事業。

サトウキビの搾りかすを牛の飼料として活用することで、食糧不足、環境問題を解決する目的で設立した会社。

 当時は、タイガーマスクとしてリングに上がる最後のシリーズとなった、7月1日に開幕した「サマーファイトシリーズ」の最中だった。

「この巡業中に、北海道のホテルでその先輩に呼ばれて『次の北陸巡業で話があるから来てくれ』と言われました。そこで猪木さん、坂口さん、新間さんを追い出してクーデターを起こす話を聞かされました。それで、『お前もついてきてくれ』と。

 だけど僕は、3人に恩義がありますから『行きません』と言いました。

ハイセルの問題が事実だとしても、僕は『猪木さんも苦しいから仕方がない』と思っていましたから。

 ただ、クーデター側の先輩にもお世話になっていましたし......。だから僕の立場は、猪木さん側との板挟みになってしまった。両方に義理を立てるために、タイガーマスクを辞めたんです」

 他にも私生活において、会社から結婚を反対された問題もあったという。そして8月4日にサマーファイトシリーズが最終戦を迎え、6日後の8月10日、新日本に契約解除の通知を文書で郵送した。

「このシリーズ前は、新日本を辞めることは考えていませんでした。

ですから、辞めることを決めたのは本当に直前です。ただ、最後の寺西さんとの試合の時には、『これが最後になる』と決意していました」

【デタラメ記事がきっかけで猪木さんと再会】

 退団前、猪木さんにあいさつをすることはなかった。逆に引退後、猪木さんから連絡がくることもなかった。1975年の入門から8年あまり、強い絆で結ばれていた猪木さんとの関係が途切れてしまった。

「僕が新日本を辞めたということは、猪木さんとの決別を意味します。当時は『全日本プロレスに行くんじゃないか』というウワサも立ちましたが、僕はそっちへ行く予定はなくて、自分の理想を実現するべく格闘技の世界へ進むことを決めました」

 引退後は世田谷区内にジムを開き、かねてからの夢であった"新たな格闘技"を創設すべく後継者の育成に尽力した。猪木さんとの交流も閉ざされたが、思いもよらない形で再会する。

それは、佐山が新日本を退団した後に掲載された週刊誌の記事だった。内容は、「クーデター事件の首謀者は佐山だ」という憶測だった。

「まったくのデタラメですから、僕は週刊誌が出た直後、猪木さんに『お会いしたい』と連絡を取りました。猪木さんは快く承諾してくださいました。そこで僕は『あれは嘘です』と話すのを、猪木さんは何も言わずに聞いてくれたのですが、加えて『これからは格闘技へ行きます』と、初めて猪木さんに自分の思いを伝えました」

 ジムで新格闘技「シューティング」を創設。一方で1984年7月からは「第一次UWF」に参加してプロレスへ復帰する。

リングネームを「ザ・タイガー」から「スーパー・タイガー」へ改名したUWF時代について、佐山は「プロレスを格闘技へ移行させるための実験でした」と明かす。

 事実、曖昧なプロレスのルールを競技のように厳格化し、ルールブックを作成。ボクシングのようなランキング制も導入して新たな道を模索したが、選手、フロントから理解されず1985年9月に退団した。その後、「シューティング」を「修斗」と名前を変え、1986年には協会を設立し、プロ、アマチュアの試合を開催。現在につながる総合格闘技の礎を築いた。

【佐山にとって「アントニオ猪木とは」】

 修斗には10年間、創設者として携わったのちに1996年に運営から離れた。

それがきっかけで、再び猪木さんとの"師弟関係"が復活することになった。

 猪木さんに呼ばれて新日本に参戦。さらに1998年には、引退した猪木さんが設立した「UFO」に参加し運営に携わる。1年後の1999年には同団体を離れ、市街地型実戦武道「掣圏道(後の掣圏真陰流)」を設立。65歳となった今年に入り、新たな武道「神厳流総道」を立ち上げ、格闘技と武道の新しい道を創造し続けている。

 一方でプロレスでは、2005年に初代タイガーマスクとして、ストロングスタイル復興を目的にプロレス団体、現在のストロングスタイルプロレスを主宰して後進の育成に尽力している。

 波乱万丈、紆余曲折の人生。佐山はこう振り返る。

新日本プロレス、シューティング、修斗......僕の中では全部、つながっています。それは、すべて『アントニオ猪木』からスタートしているということ。猪木イズムがなかったら、ここまでできていなかったと思います」」

 佐山が創設した「修斗」を起爆剤に、1990年代に入りアメリカで『UFC』が人気を呼び、現在は世界中に総合格闘技が根付くことになった。佐山こそ総合格闘技の祖。そして猪木さんの没後には、「猪木vsモハメド・アリ」が格闘技の原点と評されることが多くなっている。佐山は、この見方に対して自らの考えを強調した。

「総合格闘技の原点について、一般の方々にとっては『猪木vsアリ』なのかもしれませんが、私たちにとっては"猪木イズム"こそが原点なんです。あの道場で強さを追求した猪木イズム。あの魂がすべての原点なんですよ。そこだけは忘れてはいけない、非常に重要なことです」

 10月1日に迎えた猪木さんの一周忌。あらためて佐山に「アントニオ猪木とはどんな人だったか?」を聞いた。

「僕は『猪木さんのためなら命はいらない』と思っていた時期があった。そう思えるほどの人間でした。僕にとっての"象徴"です」

 少し天を見上げ、言葉を続けた。

「猪木さんの影を忘れないようにして生きていくことが大切だと思います。僕は、自分が信じた『アントニオ猪木』を偶像にして生きていきます」

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。

(終わり)