プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 西川慎一(後編)

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 26歳でプロ入りした西川慎一氏は、近鉄時代に中継ぎ投手としての地位を確立し、1998年には61試合の登板を果たすなど実績を積んだ。2000年、シーズン途中にトレードで阪神に移籍。

新天地でも中継ぎとしてチームを支え、年俸は3000万円を超えた。だが、その後は登板数も減り、02年に戦力外通告。テストを受けて広島に入団するも、04年シーズンを最後に現役引退。引退後は家業を継ぎ、飲食店、ホテルの経営者となった。西日本豪雨やコロナ禍で大打撃を受けるも、プロで培った根性で危機を乗り越えた。西川氏にとってプロでの生活とはどんなものだったのか?

近鉄→阪神→広島でプロ通算282試合に登板 左キラーとして活...の画像はこちら >>

【阪神移籍でプロの醍醐味を経験】

── 2年連続で50試合登板を果たした西川さんですが、1999年は22試合の登板に終わりました。転機となったのは2000年。

シーズン途中に野村克也監督が指揮をとる阪神タイガースにトレードされました。

西川 近鉄からは僕とショートの吉田剛、阪神からは杉山賢人の2対1のトレードでした。阪神がほしかったのは吉田で、私は近鉄から「いらん」と言われたようなものです。そこで「なにくそ!」と思ってプレーしました。

── シーズン途中の移籍にもかかわらず、45試合に登板し、2勝を挙げました。防御率は1.93。

その頃はまだ、セ・リーグパ・リーグでは人気面でも報道の量でも大きな差がありましたね。

西川 移籍してから、電話がジャンジャンかかってくるようになりました。地元の愛媛では巨人戦のテレビ中継を見ている人が多いですから。それまで連絡のなかった人から「頑張っとるな」と言われました(笑)。甲子園球場はものすごく投げやすかったですね。本当に球場が揺れるんです。

華やかな球団で、いい経験をさせてもらいました。

── 好成績を残した分、年俸に反映されましたか。

西川 近鉄では年俸が2100万円まで下がっていたんですけど、おかげで3000万円を超えました(3150万円)。

── しかし、野村監督は2001年限りで更迭されました。後任の星野仙一監督が指揮をとるようになってから登板数が減り、2002年は5試合の登板で防御率14.73。西川さんは戦力外通告を受けました。

西川 その後、テストを受けて広島に入団することになりました。2003年はギックリ腰になって1カ月ほど戦列を離れましたが、それでも43試合に投げました(防御率は7.15)。2004年、中日ドラゴンズ戦の延長11回にマウンドに上がって、立浪和義(現・中日監督)にサヨナラヒットを打たれたのが最後の登板になりました。広島に入った時に「1年目は使ってやるけど、2年目はないよ」と言われましたが、実際にそうなりましたね。

【実家の家業を継いで経営者に】

── そのシーズン限りで再び、戦力外になりました。

西川 現役最後の年は、二軍で145キロくらいのボールを投げていたんですけどね。その後は1年間、ひとりでトレーニングを積みました。

でも、ユニホームを着ることはできませんでした。もし使ってくれる球団があればと思っていたんですけど。

── 引退後のセカンドキャリアとして選んだ仕事は何ですか。

西川 私の出身地である愛媛県大洲市で、実家の事業を継ぐことに。今は、お食事処「にし川」、ホテル「ウエストリバー」を経営しています。地元のみなさんは私の名前を知ってくれていたので、助かりました。

── 未経験の仕事でしたが、戸惑いはありませんでしたか。

西川 それまでプロ野球の世界にいて、見られることはあっても、直接ファンの方と接することはほとんどありませんでした。この仕事を始めてから、お客さまとの会話に気を配るようになりました。和食のお店なのでご年配の方が多く、みなさんに助けていただいています。

── 1泊100万円で宿泊できると話題の大洲城がある大洲市は、「伊予の小京都」と呼ばれる観光地です。日本の三大鵜飼いに数えられる「鵜飼い」でもよく知られています。しかし、2017年に西日本豪雨に襲われ、2020年にはコロナ禍で大打撃を受けましたね。

西川 西日本豪雨で、大洲市は大変な被害にあいました。コロナの影響で観光のお客さまも宴会も減って大変でしたが、今年になってやっと上向いてきましたね。5、6年ほど前から性根を入れ直して、経営に取り組んでいます。

【プロ時代のベストピッチは?】

── 中学時代に帰宅部だったのに、ドラフト2位指名を受けてプロ野球選手なり、37歳までプレーした西川さんは、プロ野球では異色の存在です。もう一度戻れるとしたらどんな野球人生を送りたいですか。

西川 野球の強い高校でやっていればどうなっていたのかなという思いはあります。もっと早くプロ野球に入れて、長く現役を続けられたかもしれませんね。でも、高校時代は部活が楽しかったんですよ。16時30分くらいから練習を始めて19時には終わり。厳しいことはせず、好きことばかりやっていたので、毎日が楽しかった(笑)。練習後は、徒歩3分で家に着いて、のんびり過ごしていました。

── 11年間プレーしたプロ野球で282試合に登板しました。そのなかで印象に残るバッターは誰ですか。

西川 私は左投げだったので、すばらしい左バッターと対戦することができました。最後のバッターは立浪でしたし、高橋由伸(元巨人)にサヨナラホームランを打たれたこともあります。岩村明憲(元ヤクルトほか)は、1本ホームランを打たれた以外は抑えました。とくに印象に残っているのはイチロー松井秀喜(元巨人ほか)、高橋由伸の3人ですね。そういう選手と対戦できたことは財産になっています。

── ベストピッチングを選ぶなら?

西川 阪神に移籍した年に松井を3球三振で打ちとった試合ですね。東京ドームで、インコース、インコースを2球続けて攻めて、最後にアウトコースで見逃し三振。あの時の自分のピッチングは今でも頭のなかにあります。


西川慎一(にしかわ・しんいち)/1967年2月26日、愛媛県生まれ。大洲農業高からNTT四国を経て、93年ドラフト2位(逆指名)で近鉄に入団。中継ぎの柱として、97年は51試合、98年にはチーム最多の61試合に登板した。2000年シーズン途中に阪神にトレード。02年に自由契約となり、広島にテスト入団を果たしたが成績を残せず、04年シーズン後に退団。引退後は実家の家業を継ぎ、現在は経営者として多忙な日々を送っている