相澤晃インタビュー 前編

ケガから復帰してパリ五輪を狙う相澤晃 箱根駅伝で並走したライ...の画像はこちら >>

 復活を告げる快走だった。東京五輪1万m代表の相澤晃(旭化成)は2022年の夏にケガした影響もあり、1万mでは約15カ月のブランクを経て2023年12月の日本選手権1万mに出場。

順位は3位に終わったが、自身が3年前に樹立した日本記録を上回る27分13秒04の自己ベストでパリ五輪代表争いに名乗りを上げた。
 相澤はいかにしてスポットライトに戻ってきたのか? 競技人生で最も長く走ることから離れた期間、何を考え、何に取り組んでいたのか?

【走れない期間はフィジカル強化に集中】

――日本選手権1万m(2023年12月10日)は1年半ぶりの1万mのレースで、自己ベストでありながら3位でした。上位3名が、相澤選手が3年前の日本選手権で樹立した日本記録(27分18秒75)を上回るハイレベルなレースとなりましたが、まずは記録と順位含め、振り返っていかがですか。

「2022年の7月にオランダでレースに出て以降、1万mには出場していなかったので1万mをどう走るか、どういう風なレースをするかという点で、緊張した部分はありました。ただ、2023年の夏場以降、ケガなく練習ができていたので、自分の走りをしっかりすること、調子がある程度のところまでいければタイムは出るんじゃないかと思っていました。優勝することはできなかったんですけど、現時点でのベストは尽くせたかなと思います」

――かなりのブランクを強いられたわけですが、その要因となったケガはどのようなものだったのですか。

「2022年の7月の終わり頃の練習で痛めました。

ちょうど右足首の内側のくるぶしあたりで、最初は張りかなと思っていたら、走っていくうちに痛くなって、しばらく練習は継続していましたが、もう走るのはやめた方が良さそうだなっていうところまで来て、ちょっと休みました」

――足の接地時に負荷がかかる部分なので、結構気になったのでは?

「自分の場合、右足の接地の時につま先が外側に向きすぎる傾向があったので(その分内側に体重がかかる)、その影響で痛めたのかもしれません。10月から年明けの2月までは医師の判断もあり全然走りませんでした」

――思った以上に長引いた、という印象でしょうか。高校、大学時代含めても約4カ月も走れない時期はなかったと思います。

「これだけ長い期間走れなかったのは初めですが、自分の中で長引いたという印象はありません。むしろ走れない期間には、トレーナーさんはじめさまざまな方々に協力してもらい、ケガの要因となったクセを治して効率の良い接地の仕方を身につけたり、あまり本格的にやってこなかったウエイトトレーニングなどに集中して、走れない分、補っていました。歩く分には痛くなかったですし、改めて陸上競技に向き合えた時間でもあったので、早く治ったらいいなぐらいしか思ってなかったですね」

【効果的だったバイクトレーニング】

――走れない期間のウエイトトレーニングも復帰後のパフォーマンスに大きな影響を与えたと思いますが、何が一番効果的な取り組みだったと思いますか。

「器具を使うメニューも含めたウエイトトレーニングについては、ケガする前よりトレーナーさんとメニューの組み立てや中長期的な取り組み方について綿密に話し合った上で行なうようになりました。

あとは自分にとってプラスだったのはバイクトレーニングですね。通常のポイント練習(試合と同様のペースで走る実戦形式の練習)よりきつかったので、走らなくても十二分に心肺機能を鍛えることができました」

――アスリートのバイクトレーニングは短時間の無酸素状態で行なったり、ケガからの復調過程で体を慣らすための目的で行なわれるイメージが強いので、意外です。

「そうですね、あまりイメージはないかもしれませんが、自分はトレーナーの方、専門の研究員の方にトレーニングメニューを作ってもらい、週2回ぐらい取り組んでいました。ロングインターバル(セット間の休む時間を長めに取る)で、バイクを4分漕いで3分リカバリーのような感じでした。個人的には、走らなくてもこれだけ肺を追い込めるんだという納得感があるくらい、本当に自分に合った練習と感じたので、今までやってこなかったのがもったいなかった、と感じたくらいでした」

――その辺りは、悲観せずに過ごせていたのですね。

「2月に入ってから走練習を再開しましたし、おそらく12月に日本選手権が開催されるだろうという前提の元、そこを目指していこうと復帰しました」

――とはいえ、レースには2023年9月の日体大記録会5000mまで出場しないわけですが、その間には3歳年下の田澤廉選手(現・トヨタ自動車)が2年連続で世界陸上1万mに出場するなど台頭してきました。

その辺りはどのように捉えていましたか。

「田澤君くらいの力の持ち主ならあれくらいのことはできるだろうなと見ていました。ただ、僕個人は性格的にあまり周りのことをそこまで気にしてはいません。マイペースでやるべきことをやるだけ、というスタンスです。もちろん同級生や戦う相手をレースで意識することはしますが、だからと言って、普段の練習から意識しているかといえばそうではない。大学4年の箱根駅伝(2020年)で伊藤(達彦、現・Honda)と2区で並走するシーンがあったことで、周りから、ライバルは伊藤君? と聞かれる機会が多くなり、自分もそうですと答えることは多いです。

ただ、四六時中、すごく意識しているかって言われたら、そこまでではありませんし、他の選手に対してもそうです。伊藤とは仲はいいですけど。

 あと、自分が走れていない時期に結果を残す選手を変に意識しすぎると焦りにつながるので気にしません。2023年はレースから長く離れている分、普段よりは意識していたかもしれませんが、自分が万全の状態で戻って走ったら勝てるだろう、という風に思うようにしていました(笑)」

【3位の悔しさ、自己ベストの安堵】

――今回の日本選手権を振り返ると、レース中盤以降、優勝した塩尻和也(富士通)、2位の太田智樹、4位の田澤廉(ともにトヨタ自動車)の3選手と共に先頭集団を形成していました。どのような思いで走っていたのですか。

「正直、4000mぐらいからわりときつかったのですが、ラスト2000mまでどれだけ余裕を持って走れるか、ということだけ意識していました。

おそらく塩尻さんが強いだろうと感じてはいましたが、何も考えずについていくしかないと思って走っていました」

――選手の皆さんがレース中に相手の様子を肌で感じることって、レース後のコメントでよく聞きますが、どのように感じ取っているのでしょうか。

「そのレースだけというより、地区駅伝やトラックなどシーズンを通しての印象を踏まえてレース中の表情で確認する感覚です。6000mを過ぎたあたりでは太田は前の方で長い間走っていたこもあってきつそうでしたが、塩尻さんは余裕ありました」

――田澤選手については?

「本人の大会前のコメントでも、練習を積めなかった、と言っていましたが、日程もきつかったと思います。1万mって1年間にそんなに何度も走れる種目ではないんです(田澤は2023年7本目の1万mのレース)。だから今回、レース終盤は結構きつくなってくるのかなと思っていました」

――8000mを過ぎてから塩尻選手が先頭に立つと相澤選手も反応。その後ずっと背中を追い続けましたが、届きませんでした。

フィニッシュ手前では太田選手に交わされました。

「最後はもう追いきれなかったですね。ただ、力は出しきれました」

――レース後の取材対応では、3位になった悔しさと1年半ぶりの1万mで今の力を出し切り自己ベストを出せた安堵感の両方があると話し、目に光るものも見えました。

「確かに泣きそうでしたね。正直、ほっとしたところもあって、ようやく復帰できて第一歩を踏み出せたと。(上位3名が突破した)日本記録樹立の記念撮影に途中で連れて行かれましたけど、もしあのまま質問を受けていたら本当に泣いていたかもしれません」

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【プロフィール】相澤晃(あいざわ・あきら)/1997年7月18日生まれ、福島県出身。学法石川高(福島)→東洋大。高校時代は貧血などに悩まされインターハイ出場はなかったが、大学入学後は食事の改善等もあり、潜在能力を発揮。2年時以降は特に学生3大駅伝でその存在感を見せつけ、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝すべてで区間新記録を樹立。2020年箱根駅伝2区では史上初の1時間5分台(57秒)となる区間新記録を樹立した(今も歴代2位、日本人歴代最高)。卒業後は旭化成に進み、2020年にトラック1万mで日本記録更新、日本選手権1万m優勝2回(2020年、22年)、2021年東京五輪出場(17位)を果たしている。