大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~森島貴文(後編)

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 森島貴文は高校卒業後、安井洸貴、小池裕也、杉森友哉とともに関西大学へ進学した。大阪桐蔭の監督である西谷浩一の後輩となった。

進学を考えた時から「野球は大学まで」と決めていた。それだけに完全燃焼を目指しスタートした大学野球だったが、高校野球との違いに考えることも多くあった。

 野球部に籍を置いたまま練習に顔を出さない"幽霊部員"も珍しくない。交友関係も一気に広がり、野球以外の学生生活の楽しさも増える。練習も授業の合間を縫って行くことが多く、一体感も生まれにくい。ある面、気持ちで戦ってきた森島にとって、そこをつくるのが難しくなった。

「野球しかやってきていませんが、御社では役員になれますか」 ...の画像はこちら >>

【選手から学生コーチへ転身】

 そんななか、1年、2年が過ぎ、3年目に転機が訪れた。学生コーチへの転身だ。関西大では各学年にひとり、学生コーチ、もしくはマネージャーを置く慣例があり、森島の学年にも当初学生コーチがいた。それがある時期から不在になり、その後もなり手がなく、空席が続いた。そこへ首脳陣から声がかかった。

 残り1年あまり、プレーヤーとしてまっとうしたい気持ちは強くあったが、どうすることがチームのためになるのか。考え悩み、西谷に相談すると「適任やろう」と即答だった。

 信頼する西谷からのひと言で迷いは消えた。関西大の野球部は例年150人前後の大所帯だが、選手を前にした初めてのあいさつで森島は言った。

「オレはチームを神宮に連れて行きたくて、学生コーチを引き受けた。幽霊部員が増えてもいいからやる気のあるやつだけついてきてくれ」

 西谷も大学時代、監督代行のような立場で日々の練習を組み立て、メンバーを選び、チーム運営に深く関わった時期があった。その経験がのちに生きたと振り返ることがあった。森島も新たなポジションを得て、指導の面白さに触れていった。

 新たな練習法やトレーニングを思いつくと、監督、コーチにどんどんぶつけた。毎日の練習のなかで、シートバッティングとシートノックを必ず入れるようにしたのも森島の発案だ。カウント、状況を設定してのシート練習を重視していた大阪桐蔭に習ってのことだ。

 コーチ2年目の4年秋、チームは神宮大会出場。有言実行の形となり、自らの大学生活を締めくくった。指導者としての経験も積み、西谷の歩みとの重なりも感じながら森島の話を聞いていると、教員、指導者への道は考えなかったのかという思いが頭をよぎった。

「大学3年で就活を始める頃に西谷先生から『教員にならへんのか?』と聞かれたことがありました。でも365日、西谷先生みたいに野球漬けの生活は自分にはできないなと......」

 西谷は、大阪桐蔭の初代監督で関西大OBでもある長澤和雄に誘われ、大学卒業と同時に大阪桐蔭へ教員として赴任。同時に野球部コーチとなり、その後28歳で監督となった。

「自分がもし会社の社長をするとしたら、必ず声をかける」と森島の人柄、働きぶりを評価していた西谷のこと。森島の返答次第では「いずれは一緒に......」との思いを持つことになっていたのかもしれない。

【サラリーマンってカッコいい】

 この時期、森島の進路に興味を持っていた人物がもうひとりいた。当時、福井工大福井で野球部監督を務めていた田中公隆だ。

田中は、森島らが3年時まで大阪桐蔭でコーチを務めており、その後、森島の弟が福井工大福井の野球部に進んだことで縁が続いた。大学在学中に小池、白水健太らの同級生を誘って練習の手伝いに行ったことがあった。

 そうした関わりのなかで、田中も森島の指導者としての資質を感じていたのだろう。「一緒に甲子園を目指そう」と、何度も熱心に誘った。ちなみに福井工大高はその後、白水がコーチとなり、現在は監督を務めているが、これは森島の勧誘からつながったもの。つまり、森島は田中の誘いに首を縦に振ることはなかった。

「教員免許は、もう少しで取れるところまでいっていたんです」

 しかし、"あと少し"を積極的に取りにいくことはなかった。西谷のように365日野球中心の生活はできないと思ったことはたしかだ。しかしその思いとは別に、森島には早くから描いていた人生プランがあった。

「大学を卒業したら安定した会社に入って、しっかり給料をもらって、楽しい家庭生活を送る。そういう人生を送りたいっていう思いがずっとあったんです」

 職として会社務めのサラリーマンを目標としたきっかけは、かつて大阪桐蔭にも出入りしていたスポーツメーカー勤務の父の姿にあった。

「親父を見ていて『サラリーマンってカッコいいな』って、子どもの頃から思っていたんです」

 父が聞けば涙腺が緩みそうな息子の言葉だが、サラリーマンのどこに憧れたのか。

「ふだんは一生懸命仕事をして、土日になると子どもたちのために思いきり時間を使って、母親のことも大切にする。そういう姿をいつも見ていてカッコいいなと思っていたんです」

 プロ野球選手になるという夢の一方で、持ち続けていたサラリーマンへの思い。大学3年からの就職活動ではメーカーに絞って回った。そして面接が進むなかで、森島は必ず会社側にこう聞いたという。

「僕はこれまで野球しかやってきていませんが、御社では頑張れば役員になれますか」

 この問に笑みを浮かべて答える担当者もいれば、少々怪訝な表情で反応する担当者もいた。答えは大方「頑張り次第」といったニュアンスが強く、なかにはTOEICの得点や語学力のレベルを具体的に挙げてくるケースもあった。

 TOTOの最終面接でも、森島は同じ質問を面接官に向けた。すると、この時初めてこう返ってきた。

「なれます。弊社にはそういった人間がすでに何人もいます」

 このひと言で森島の心は決まった。1時間後に内定の連絡を受けると、電話口の女性に「よろしくお願いします」と言ったあと、「頑張れば役員になれると言われて決めました」ともう一度、ダメ押しで思いを伝えた。

【役員にこだわる理由】

 それにしても、なぜ森島はそこまで役員にこだわるのか。

「正直なところ、大学4年の時に役員とか執行役員って聞いても、どういう立場で何をするかもよくわかってなかったんです。単純に、将来そこそこ年齢がいった時に、名刺に"役員"とか"執行役員"とか"専務"とか入っていると『おおっ』って感じになるのかなと。そのくらいの感覚だったんです」

 食いつき気味に質問を重ねたこちらに「すいません」といった感じで当時の本音を口にした。ただ入社から7年が過ぎ、その思いは陰ることなく、むしろ強くなっているという。

 その話を聞きながら、森島の代のキャプテン・水本弦のことを思い出した。昨年10月から代表取締役として会社を立ち上げた水本に、この先の目標を尋ねると迷うことなく「会社を経営するからには上場です!」と返してきた。会社経営についてはまだほとんど何もわかっていないが、やるからには目指しますと。元大阪桐蔭のキャプテンらしい明快な意気込みを感じたが、今回の森島からも水本に通じる思考が伝わってきた。

「一緒だと思いますよ。僕は水本みたいに起業する勇気はないですけど、この会社のなかでどこまで昇っていけるか。22歳まで野球だけやってきた人間が、誰もが知るような会社で役員にでもなったらちょっと面白くないですか。会社に骨を埋めるつもりで、昇れるところまで昇っていきたいです」

 子どもの頃から勝負の世界に身を置いてきた者たちの性でもあるのか。目指すべき場所が定まれば、あとはガムシャラに走る。超えるべきハードルが高ければ高いほど、気持ちは燃え上がる。森島、水本のふたりにとっては、"役員"も"上場"も上を目指して駆け上がっていくためのパワーワードだったのだろう。甲子園を知らなかったメンバーが、言葉ひとつでその気になった「春夏連覇」と同じように。

 森島は昨年10月、第一子が誕生した。両家の祖父、祖母らの喜びに胸を熱くしたと同時に、親になった責任をたしかに感じたという。さらにこの9月には、30歳の節目も迎える。

「会社でも、20代の間は上の人が多くいて、そこについていけば何とかなるというところもありました。でも30代は、仕事でも、人間的なところでも、自分のレベルをひとつ上げて、言動に責任を持っていかないといけない。しっかり後輩を引っ張っていきたいです」

 それまでの野球一色の生活から一変。仕事を覚えながら突っ走ってきた20代が過ぎ、ここからの10年、そしてまた次の10年。

「10年後、20年後、どうなっているか......ですね」

 会社では頼れる仕事人に、家庭ではよき父親に。日本一のブルペンキャッチャーから究極のサラリーマンへ。堅実に、時に大胆に、森島は歩み続ける。

(文中敬称略)