連載 怪物・江川卓伝~「江川卓に勝った男」の壮絶人生(前編)

 江川卓に勝った男──気づくとその代名詞がつきまとっていた。"甲子園優勝投手"という輝かしい実績よりも、先に言われることもあった。

試合には勝ったが、一度たりとも江川に勝ったと思ったことはない。世間の評価と自分の評価は、いつも大きなズレが生じていた。

江川卓に勝った男は甲子園優勝からドラ1でプロ入りも、ヒジを見...の画像はこちら >>

【ドラフト1位で中日に入団】

 土屋正勝。江川より1歳下であり、銚子商(千葉)では1年夏以外の4季連続甲子園に出場し、高校3年時の1974年夏に甲子園で優勝。銚子商に初めて深紅の優勝旗をもたらした投手である。

 その年、中日ドラゴンズからドラフト1位指名を受けたが、それよりも高校2年夏の甲子園で作新学院の江川に投げ勝った投手としてのイメージのほうが、人々の記憶に残っているかもしれない。

 江川に勝ち、翌年夏は甲子園優勝......ドラフト前には超高校級投手としてどこの球団が指名するのか、連日マスコミが大々的に取り上げた。

 晴れて中日にドラフト1位で指名され、当時の近藤貞雄ヘッドコーチ兼ピッチングコーチが「楽しみな投手が入った」と、次代を担うエース候補の入団に喜んだのも束の間、入団後、土屋の右ヒジを見て絶句する。

「アカン、壊れている......」

 高校時代の酷使で右ヒジは限界寸前だった。土屋の未来は、前途洋々から前途多難へと移り変わっていく。己の力不足なら納得できる。だが酷使により、プロでは一球たりとも納得する球を投げられず、引退を余儀なくされたのはどんな思いだったのだろうか。

「ヒジ、肩の致命傷は、高校3年の時ですね。

春に足首を捻挫して、岡山での遠征の時に『痛くて投げられません』と監督の斉藤(一之)先生に言ったら、『招待されているのに、おまえが投げなくてどうする!』ですから(笑)。足首をかばって、無理して投げていたらヒジを痛めてしまって。そのうちヒジをかばって投げていたら肩も痛めて......もう悪循環ですよね。プロに入っても、完全に治らなかったですね。手術して、メスを入れなきゃいけない状態だったので。当時は、メスを入れたら引退という時代でしたから」

 高校1年秋にもヒジと肩を痛めたが、軽症であったためまだ投げることはできた。

しかし、高校3年の時は激痛が走り、我慢しながら騙し騙し投げていた。

【無名だった中学時代】

 土屋が中学2年の時、3年後に千葉で「若潮国体」の開催が決まった。高校の硬式野球の開催地が銚子ということで、市内の有望な中学生を中心に強化指定選手の名目で集め、合同練習させていた。銚子商の斉藤、千葉商の蒲原弘幸、成東の松戸健ら、県下の名だたる監督がコーチとして招かれた。そのなかには、のちに銚子商でチームメイトになる1学年上の飯野哲也、岩井美樹、磯村政司がおり、習志野に進む掛布雅之(元阪神)もいた。

 土屋が通っていた旭一中学の野球部は、練習は厳しいが弱小で、県大会など夢のまた夢だった。それでも土屋は「銚子商で野球がしたい」と門を叩く。

 銚子商に入る部員のほとんどは、中学時代はエースで4番、県大会出場は当たり前の選手ばかり。土屋は相手のことを知っていても、相手は土屋のことを知らないどころか気にも留めない。それほど中学時代の土屋は無名だった。

「入学した当時の監督から『おまえ、なんで来たの?』って。それで『5番目だ』って言うんですよ」

 要するに、5番手投手ということだ。銚子商のエースになることを夢見て入学したが、いきなり出鼻をくじかれた。

それでも土屋に不安や焦燥感はなかった。あるのは「見てろよ」という反骨心と自信だけだった。

 1年生の土屋は、来る日も来る日もバッティングピッチャーをさせられた。さすがに家に帰ると、疲れて寝るだけ。

「親父から『好きなことをやりに銚子商に行ったのに、なぜ頑張らないんだ!』って言われて。それから毎朝、九十九里海岸の矢指ケ浦浜に行って走りました」

 練習に行く前、自主練習としてランニングすることが土屋の日課となった。

 1年夏までの練習メニューは20分間のバッティングピッチャーをやり、あとはひたすらランニングをするだけ。土屋は3年生の根本隆(元大洋)のバッティングピッチャー担当だった。

 根本といえば、エースで4番、しかもキャプテン。1年生からすれば神様みたいな人である。万が一、投げ損なって手を痺れさせでもしたら、機嫌を損ねてしまう。2年生からは「おまえにかかっているんだからな」と、プレッシャーをかけられる。ただ幸か不幸か、そのおかげで制球力が身についた。

 銚子商の甲子園出場が断たれた1年夏、事件が起きた。2年生が練習をボイコットしたのだ。当時の監督の采配では勝てないと考え「(監督に)復帰してください」と、部長をしていた斉藤一之に直談判したのだ。

 高校野球は学校のクラブ活動の一環である。選手同士が結託し、監督を更迭するためボイコットするなど御法度である。だが監督が斉藤に代わった途端、事態は一変する。銚子商の歴史も変わり、土屋の運命もガラッと変わるのだ。

【衝撃の江川との初対戦】

 練習試合にいきなり登板させ、好投した土屋に背番号11を渡し、秋の地区予選メンバーとしてベンチ入りさせたのだ。1学年上の飯田三夫と土屋の二本柱で次々と勝利し、秋の関東大会準決勝で作新学院の江川と初対決するのである。

 会場は銚子市野球場。地元での試合とあって、銚子商ナインは燃えていた。その時、土屋はヒジを痛めて東京の病院に通っており、準決勝の試合開始には間に合わなかった。

 試合開始後に戻ってくると、「黒潮打線」と謳われた強打の銚子商打線が三振の山を築いている。

「なんだ?」

 土屋の目に映ったのは、威風堂々とした耳の大きい大男がマウンドで仁王立ちしている姿だった。ダイナミックなフォームに目を奪われた土屋は、「ケツのデカさといい、すげぇ下半身だ」と、まず体つきに驚かされた。土屋は、ピッチャーとして自分にないものをすべて持っている江川に、畏怖の念を抱いた。

 この試合、土屋は9回に登板し、裏の攻撃では打席にも立った。

「高校生でこんなピッチャーいるのかよ、と本当に思いました。バットを振ったら、30センチくらいボールと離れていましたね。すごかったですよ、ホントに。もうマンガの世界。カーブだって、顔に向かってくると思って避けたら、アウトコースに決まる。投球フォームも軽く投げているように見えるんだよね」

 初めて対戦した江川に、ただただ驚倒した。

 球場に観戦に来ていた野球にうるさい銚子市民でさえ、江川の快刀乱麻のピッチングに圧倒され、バットに当たっただけで「おおぉ~」とどよめきが起こるほどだった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している