2025年のJリーグが開幕した。ガンバ大阪対セレッソ大阪の大阪ダービーは2-5と派手な撃ち合いでスタート。
開幕節はJリーグ過去最多の開幕入場者数を記録したようだが、全体的には"慎重な戦い"が目立った。
「相手にサッカーをさせない」
多くのチームがそこに重点を置いていた。例年、その傾向は増しつつあり、とりわけ日本人監督に顕著である。発想の出発点が受け身的で、能動的ではない。敵のプレーを分断し、選択肢を削り、ミスを誘えるか。用心深く、周到で、効率を求めた戦いだが、言い換えれば、臆病で創造性に欠け、挑戦的でない、とも言える。
フォーメーション的には5-4-1とお尻が重たい印象のチームが多く、「失点をしない」ありき。一方で、トランジションからのカウンターの意識は高い。守りを重視しながら、カウンターで相手を仕留める。言わば、"弱者の兵法"だ。
その代名詞は、カタールW杯で森保一監督が用いた戦略構想だった。ただ、監督の戦略を実行するだけだったら、世界では一敗地にまみれていただろう。今や欧州の最前線で経験を重ねる鎌田大地など有力選手たちが、ギリギリのところでボールを持つ時間を増やし、勝利の確率を上げ、ドイツ、スペインにどうにか金星を挙げた(一方、守りに回った格下コスタリカ戦では攻めあぐねて敗北し、弱者の兵法の限界を露呈した)。
弱者の兵法は負けにくく、勝利も拾える。しかし、運の要素が強い。発展性はなく、選手の才能の開花を阻害する。
横浜FC対FC東京戦(結果は0-1でFC東京の勝利)は、5-4-1のミラーゲームだった(3-4-2-1だという意見もあるかもしれないが、これだけ後ろが重く、サイドで相手を圧倒できる選手がいない編成は5-4-1とすべきだろう)。どちらも攻撃は単調で、ミスを恐れて蹴り、なかなかボールを前へ運べない。お互いが消耗した時間帯、終盤に展開が動いたが、それは戦力の均衡関係によるものだ。
【革新的なサッカーは望めない】
「サッカーをさせない」
そればかりが目についた。たとえばFC東京の左ウイングバックに長友佑都がいるのは、守備重視の象徴だった。
一方で、俵積田晃太をサイドではなく、シャドーで使っていた。俵積田は俊足を土台にした"騎兵"であり、機動力を生かした崩し、仕掛けに特長がある。生粋のサイドアタッカーで、複合的プレーが求められるシャドーでは、無理にボールを運ぼうとしてノッキングしていた。決勝点のアシスト役だったが、偶発的と言えるだろう。
そもそも、ポゼッションを志向したチームの補強FWがマルセロ・ヒアン(広大なスペースを生かしたプレーは得意だが、ボールを収め、気の利いたプレーは不得手)では理屈に合わない。適材適所という点でチグハグ。選手をフォーメーションに当てはめたような戦いが目立っている。あえて言えば、選手の持ち味も奪っているのだ。
それが窮屈な感じの正体だろう。
スペインでプレーする久保建英は、「小さい」「守備力が足りない」と懐疑的意見を向けられたこともあった。
小さな了見では、現在の久保は生まれなかった。
「サッカーをさせない」
その枠に囚われる限り、革新的なサッカーは望めないだろう。なぜなら、日々のトレーニングから選手に強度を中心に「リスク管理」を叩き込み、まずは「ミスをしない」という臆病さを植えつけてしまうからだ。サッカーの基本である"相手の逆を取る"という遊び心、それを実行する覚悟などは醸成されず、覚醒が見込めない。
「サッカーをする」
その姿勢が勝負を分けたのが、FC町田ゼルビア対サンフレッチェ広島の優勝候補対決だった。
こちらもマンツーマンに近いミラーゲームでガチガチな展開。ロングスローなどセットプレーにかける時間が長く、ロングボールも多用する。お互いが持ち味を削り合うようなじりじりした流れだった。
そんななかで、ミヒャエル・スキッベ監督が率いる広島は、「サッカー」で上回ったと言えるだろう。走行距離、スプリント数など強度では町田を下回ったが、しつこくボールをつなぎ、ゴールに迫った。
サッカーをする・させない、の駆け引きのなかで、このゲームは成立している。しかし後者のコンセプトばかりが横行すると、創造性は薄れ、内容はつまらなくなる。偶発的ミスに頼って勝利を重ねる、という戦略は味気ない。
Jリーグが真の進化を遂げるには、戦い方の革新が求められる。