空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第8回
(第7回:「熊殺し」ウィリー・ウィリアムス戦と前田日明「リングス」参戦までの激動の日々>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第8回は、目標としていた前田日明と「戦わなくていい」と思った瞬間と、リングスと決別するきっかけになった一戦を振り返った。
【タレントとしてもブレイク。石井館長からは「いい加減にしろ」】
1991年12月7日、有明コロシアムで行なわれたハンス・ナイマン戦で、前田日明が主宰する「リングス」に本格参戦した佐竹。さらに、翌年1月に初開催されたグローブ空手日本一を決める「トーワ杯カラテジャパンオープントーナメント」にも出場して優勝。1993年大会も制して2連覇を果たした。
1992年3月には、正道会館が主催した「硬派er-'92格闘技オリンピックⅠ」で、キックボクシングで"ヘビー級最強"とうたわれた米国のモーリス・スミスと、空手とキックのミックスルールで対戦して引き分け。同年10月の「格闘技オリンピックIII~'92カラテワールドカップ」では、実力が急上昇していたオランダのピーター・アーツと5ラウンドを戦い抜き、こちらもドローだった。
ジャンル、団体の枠を超えた戦いに挑み、存在感を発揮し続けた。平成の初期、間違いなく日本格闘技界の中心にいたのは「佐竹雅昭」だった。
「この頃に僕が考えていたのは、リングで結果を残すことは当然で、『どうやったら、さらに格闘技人気を広められるか』ということ。
大きかったのは、白夜書房さん系列のコアマガジンさんとの出会いですね。僕はコアマガジンさんが発行していた『熱烈投稿』を愛読していて、編集者の方に『コラムを書かせてくれませんか? 一回、会社に行かせてください』と、こちらから連絡しました。僕は子どもの頃から特撮、アニメのオタクだったので、『アニメのヒロインについて書かせてくれませんか』と提案すると、喜んで受けてくださって。それで『佐竹雅昭 娯楽番長』という連載が始まったんです」
コラムは評判になり、ほかの雑誌、新聞からも執筆のオファーが入った。
「ゲーム雑誌、漫画雑誌など、多い時はひと月に20本ほどコラムを持っていました。原稿料はだいたい1本5万円だったので、コラムだけで1カ月に100万円ほど稼いでいましたね。ほかにも、朝日新聞の夕刊でも書かせてもらいましたし、東スポではアダルトビデオを紹介する連載もやってましたよ(笑)」
それまでは、空手家といえば大山倍達を筆頭にストイックなイメージがあった。しかし佐竹は真逆で、明るく奔放。常に笑いを起こすトーク技術など、タレント性があったのだ。その才能を、テレビ界も放っておかなかった。
「大阪にいた頃も、吉本興業が制作するバラエティ番組などに出ていましたが、関東でのテレビデビューは『タモリ倶楽部』でしたね。あとは、みうらじゅんさん、筋肉少女帯の大槻ケンヂさんたちとロックバンド『大日本仏像連合』を組んだり。芸能界で活躍するようになって、石井(和義)館長から『いい加減にしろ。空手のイメージが崩れる』と言われましたが、僕は『格闘技を知らない人に、格闘技を広めるためにやっているんです。そのためには、誰からも親しまれるような面白い存在にならないといけない』と説得しました」
【"対前田"の旅が終わった瞬間】
テレビ、マスコミでの人気もうなぎ上り。いつしか正道会館の指導員を退き、リング上での待遇もプロのものになった。
「リングス時代のファイトマネーは1試合100万円でした。大学を卒業して、正道会館の指導員をした時が月5万円。最終的には11万円に上げていただきましたが、リングス時代には試合だけで食べていけるようになりました」
対戦を熱望していた、前田日明との親交も深めていった。
「前田さんは、僕と会うといつもニコニコ笑ってくださって、ふたりで飲みに行ったりもしました。対戦相手という認識から、"いいお兄ちゃん"という感じに変わりましたね」
前田との対戦を"断念"した秘話がある。
「正道会館の方の結婚式に前田さんと一緒に出席した時、前田さんが泥酔して、僕がトイレに連れていったんです。あの時に『もう前田日明とは戦わなくていい』と思いました。
それでも、リングスには参戦を続け、打撃だけでなく寝技の練習にも取り組んだ。
「サンボの講習会に出たり、ヴォルグ・ハン、アンドレイ・コピィロフと稽古をしたりしました。空手ではできない経験も含めて、リングス時代は面白かったですよ。今思えば、前田さんの人望でしょうね。あの人は、人が集まってくるような何かを持っている方でした」
【リングスと決別することになった一戦】
リング内外で充実していたが、別れは突然やってくる。
1992年10月29日に名古屋レインボーホールで、16名が参加するリングス初の最強決定トーナメント、「メガバトルトーナメント92」が開催され、その1回戦でリングスのプロレスラー・長井満也と対戦した。3分5ラウンド、素手で戦うルールで顔面へのパンチは禁止。佐竹はローとミドルの蹴り、掌底で佐竹が攻勢をかけた。
そして、一発の掌底が長井の顔面を捉える。長井は一瞬こらえるも、膝から崩れ落ちてダウン。立ち上がることができず、わずか1分24秒で佐竹がKOで勝利した。
「あれは掌底です。握っている拳を、インパクトの瞬間に開いて叩く。常に力を抜いてインパクトだけ掌底で打ち込み、離れたら拳を握るという技です。『きれいに入った』と思いました。成瀬くんや山本くんがいきり立って僕に向かってきましたが、彼らとは一緒にご飯食べに行ったりして仲がよかったので、『なんで俺にメンチ切ってるんだ?』と思いましたよ。
控室に戻ってモニターの映像を見ても、完全に掌底でしたからね。確か、会場のスクリーンでも同じ映像が流れて、お客さんも納得していたと思います。あの頃は、誰とやっても負ける気はしませんでしたね」
一方で、リング外での石井館長と前田の"異変"も感じていた。
「石井館長と前田さんの仲が悪かったんですよ。何かあったんでしょうけど、僕は知らない話。あの長井戦も勝手に決まっていて、『いい迷惑だな』と思ってリングに上がったことを覚えています。
相手セコンドからの抗議に、石井館長は怒り心頭。佐竹に"命令"を下した。
「試合が終わったあと、『佐竹、帰るぞ!』と言われて、そのまま会場を去りました」
そのあとに予定されていた2回戦を、佐竹は「肋骨骨折」を理由に欠場した。そのまま、正道会館はリングスと決別。迎えた1993年、立ち技格闘技最強を決める「K-1グランプリ」が開幕する。
(第9回:佐竹雅昭のための大会、K-1グランプリが初開催 無名のキックボクサーの拳に「痛ぇ! なんだこのパンチは!」)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。