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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.2

有森裕子さん(中編)

 日本が誇るレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2大会連続で五輪のマラソンに出場し、いずれもメダルを獲得した有森裕子さん。

全3回のインタビュー中編は、「メダルを獲りにいくという感じではなかった」という1992年のバルセロナ五輪、そして、その後の苦悩や葛藤を聞いた。

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【レース当日朝、左目のコンタクトレンズを紛失】

 1992年バルセロナ五輪のレースの数日前、有森裕子は小出義雄監督にこう言われた。

「おまえは体的な素質はない。でも、気持ちの素質は世界一だから、それで世界の選手と並ぶことができるかもしれないし、越えられるかもしれない。これだけ練習をやってきたんだから全体の10位以内には入れる。うまくいけば5位に入れるかもしれない」

 有森は冷静に「そうなんだ」と受け止めた。

「監督から『おまえはメダルが獲れる』とは言われなかったんです。本当に獲れると思っている選手、(同じリクルートに所属していた後輩の)Q(高橋尚子)とか鈴木博美には、そう言っているんですよ。私に言わなかったのは、私が暴走してしまうかもしれないという思いもあったのかもしれないですけど、実力的に奇跡か何かが起こらなければメダルは獲れないと思っていたんでしょう」

 選手であれば、監督の期待感は肌で理解できる。有森はいろいろなプロセスがあってここまで来たが、小出監督の評価を気にするよりも、足も痛かったのでコンディション調整に努めた。

 だが、レース当日の朝、アクシデントが起きた。

「洗面所で左目のコンタクトレンズを落としてしまったんです」

 容易に理解できるが、片方の目しかよく見えない違和感は相当なものだ。その状態で42.195kmを走るのは不安しかない。

「予備のレンズはないし、すごく焦りましたね。でも、レースでは走る道と給水ボトルだけ見えればいい。給水は左側ではなく、右側にあるので、右目で見えるはず。監督には言わず、自分に大丈夫と言い聞かせてスタートラインに立ちました」

【銀を獲って「もっと強くなりたい」と思った】

有森裕子がショックを受けた小出義雄監督のひと言 バルセロナ五輪で銀メダル獲得後に「次は駅伝だ」
バルセロナ五輪のレースを振り返る有森さん photo by Sano Miki

 それでも現実にはコースがよく見えず、最悪、転倒してしまうのではという不安があったが、スタートするとそれは杞憂に終わった。

「左は裸眼で0.05なのですが、走り始めた時から左目が見えないという記憶がないんです。人間って面白くて、アクシデントがひとつ起きたらそのひとつだけを考えてしまうので、2つも3つも考えないんです。だから、足の痛みは忘れてしまいました(笑)。人間の集中力ってすごいなって思いましたね」

 最初はサングラスをしていたが、途中で現地のおばあさんが応援してくれている姿が見えた時、それを外して彼女に投げた。気温30℃の過酷なレースになったが、いつの間にか順位が上がっていた。

「黙々と走っていると、先導車が見えたんです。細い道で誰もいなかったので、私がトップだと思って、このまま逃げようと思ったんです。でも、広い道に出るとはるか前に黒い点のようなものが動いていたんですよ。あれ、なんだ、1人いるじゃんと思って、そこから前を追いかけていきました」

 そして有森が、前を行くワレンティナ・エゴロワ(ロシア、当時独立国家共同体)に追いつくと、2人は抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。

エスパニョール広場からモンジュイックにかかり、残り4km、標高差80mの激坂を上り、モンジュイックの丘にある五輪スタジアムの手前までやってきた。

「競技場に入るまで一緒に行って、ラストスパートでの勝負を考えていたんです。でも、彼女は絶対に勝つんだという気持ちで、競技場の手前で私を振りきっていきました。もう抜く力は残っていなかったですね。どんどん離されて30mくらい差がついてしまいました。最後は気持ちの差が出たのかなと思います」

 エゴロワとはわずか8秒差だった。2時間32分49秒の銀メダルは、日本代表の陸上女子選手として64年ぶりの五輪でのメダル獲得になった。そのまま観客の声援に応えながらトラックを周回していると、母親から花束をもらった。競技場の観客は、情熱の国らしく有森を熱烈に讃えていた。

「レース前、親には『バルセロナ 咲かせてみせます 金の花』と手紙に書いたんですけど、正直なところメダルを獲りにいくという感じではなかったんです。この競技で生きていこうとしてひとつひとつを必死に頑張った先にメダルがあった感じでした。自分が頑張れば、私に関わってくれた人のためになると思っていたので、自分の役割を果たせた、やったという思いはありました」

 表彰式でメダルを首にかけてもらった。

夢のような姿を自分では見られないので、ホテルに帰ると、再びメダルを首にかけて鏡の前に立ってみた。

「ちょっとホッとしましたね。でも、銀メダルって、狙って獲りにいくものではないじゃないですか。みんな金メダルを獲りに行き、一番強い選手が金を獲れるわけで、銀とか銅は金を獲れなかった人がたまたま獲れるものだと思うんです。ただ、私は金を狙っていたわけではないし、次こそは金メダルをという感じにもならなかった。その時、思ったのは、もっと強くなりたいということだけでした」

【私の目標は駅伝じゃない】

 目に焼きついていたのは、前を行くエゴロワの後ろ姿だった。

「エゴロワは、あの坂をものともせず、胸を張って上り、競技場の前では私のラストスパートにもひるまず、前を行った。女性版の瀬古(利彦)さんみたいな安定感抜群の後ろ姿を見た時、すごい衝撃を受けました。今の私には何が足りないのか。どうしたらあんなに安定感がある走りができるのか。もっと強くなるためには、どうしたらいいのか。そのことをバルセロナが終わってからずっと考えていました」

 次のアトランタ五輪に向けて、強くなるためにどうすべきか。筋トレもスピードも必要になる。

あれこれ考え始めた矢先、小出監督にこう言われた。

「有森、次は駅伝だ」

 その言葉に「えっ?」と思ったという。

「次のマラソンに向けての話をしてくれると思ったので、『えっ、駅伝ですか? 駅伝に戻らないといけないんですか?』と思いました。正直、すごいショックでした。チームにはトラックや駅伝を頑張る選手もいますが、私の目標はそれじゃない。五輪でメダルを獲れて、マラソンでもうひとつ上を目指していくのを当たり前に思ってくれないんだ。メダルを獲ったということは、どういうことなんだろうっていう疑問がわいてきたんです」

 有森は、あくまでもリクルートの選手。チームの方針に従うのが基本であり、それが駅伝であれば走らなければならないだろう。だが、メダリストになり、4年後に向けて、よりマラソンに特化した練習を積んで勝負していきたいという気持ちを理解してもらえず、何事もなかったかのように駅伝を命じられたことに悔しさが募った。有森の真っすぐな視線は、チームからすればわがままな態度とみなされ、監督やチームメイトとも噛み合わなくなり、孤立を深めていった。

【入院先の病院で気持ちを入れ替えた】

「チームでは誰にも相談できないので、同じような境遇にいた山下(佐知子)さん(京セラ)とよく話をさせてもらいました。この頃は、おかしい、おかしいと思うばかりで、気持ちが非常にネガティブでした。

すると、足が痛くなったんです。監督や周囲からは天狗になったとか、お嬢様とか、わがままになっているからだと言われました。私も、自分の気持ちのせいで足が痛くなったのかなと思ったり......。かなり追い込まれていましたね」

 気持ちが晴れないなか、足底筋膜炎が悪化し、走れなくなった。有森は三重県の病院に赴き、手術を受けることを決めた。

「手術してダメだったら仕方がないと思っていました。最初は少し投げやりな感じもあったんですけど、入院している人たちに『有森さん、次の五輪に出るんだよね』と言われたんです。その時、ここで入院している人は、生きていけるかどうかわからない生命の問題を抱えている。でも、私は足が治れば五輪に挑戦できるチャンスをもらえる。挑戦できる以上は頑張ってやっていかないといけないと思ったんです」

 気持ちを入れ替えた有森は、術後、リハビリに入った。日本にいても気が散ると思い、兄がいるニュージーランドに飛んだ。すると、ある日、リクルートのマネージャーが訪ねてきた。

「来て、いきなり『有森、引退するか?』と聞いてきたんです。チームは私に引退を求めていたんだなって思いましたね。でも、『引退はしません。引退しないといけないですか?』と言いました(笑)。その後、帰国して、チームに戻ったんですけど、目標がないと気持ちが切れしまいそうでした。そこで何かレースがないかと調べたら、(1996年アトランタ五輪の五輪選考レースのひとつである)北海道マラソンが一番近い時期にあったんです。五輪選考レースであることはどうでもよくて、それよりもこれを自分の復活レースにしたい。これで走れなかったら引退しようとエントリーをしました」

 この北海道マラソンが有森をアトランタ五輪に導くことになる。

(つづく。文中敬称略)

有森裕子(ありもり・ゆうこ)/1966年生まれ、岡山県岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経て、リクルートに入社。1990年に大阪国際女子マラソンで初マラソン日本最高記録(当時)を樹立し、さらに翌1991年の同レースで日本記録(当時)を更新。同年の東京世界陸上で4位入賞。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得。その後は故障に悩まされるも、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得。2007年にプロランナーを引退後は、国内外のマラソン大会等への参加や、『NPO法人ハート・オブ・ゴールド』代表理事として「スポーツを通じて希望と勇気をわかち合う」を目的とした活動を行なっている。また、国際的な社会活動にも取り組んでいる。マラソンの自己最高記録は2時間26分39秒(1999年ボストン)。

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