三戸舜介(スパルタ・ロッテルダム)インタビュー前編

 2024年のパリオリンピック。大岩ジャパンの戦いは、三戸舜介のゴールから始まった。

パラグアイとの初戦、前半19分に三戸が決めたゴールは、5-0で大勝する口火となった。

 オリンピック後、スパルタ・ロッテルダムに戻った三戸は少々沈黙する時期があったものの、シーズン後半戦になって息を吹き返してきた。話を聞けば、三戸はオリンピック後に燃え尽き症候群のようなものを感じていたという。

 三戸のこれまでの歩み、燃え尽きた感覚、ヨーロッパでの目標、そして日本代表との距離感について話を聞いた。

   ※   ※   ※   ※   ※

三戸舜介はパリ五輪後、燃え尽き症候群になっていた 「前向きな...の画像はこちら >>
── 2025年に入ってフル出場が続き、2ゴールを記録した試合もありました。調子を上げているように見受けられます。

「2025年になってから、やっとフルで試合に出始めました。フル出場は去年1回もなかったし、今シーズンの前半もほとんどベンチだったので、やっと自分らしさというか、ちゃんとサッカーができている感じです」

── ようやく安定した出場機会ですね。

「そもそもオランダに来た当初は、こんな感じですぐ試合に出られるとは思ってなかったです。いろんな選手が海外に行っていますけど、早く環境に順応する人もいれば、時間のかかる人もいるので。

 でも、加入からちょうど1年で慣れました。自分のなかではそんなに遅くもなかったし、別に早くもなかった感じです」

── 振り返れば昨シーズン、加入した直後にゴールを決めて(2024年1月13日/フォルトゥナ・シッタート戦)、そこからトントン拍子で上がっていくイメージがあったのでは?

「うーん......あれは、たまたまゴールに入ったみたいな感覚だったので、あのゴールでなにか手応えがあったというわけではないんです。

本当にたまたま点が取れたっていう感じでしたから」

── 昨シーズン後半戦と今シーズン前半戦は、試合に出たり、出なかったり、出場時間が短かったりと苦しい状況が続きました。その都度、どういうテーマを持って戦っていたのですか?

「昨シーズンはずっと、オリンピックを目指していました。だからオリンピックが終わると、目指すところがわからなくなったというか......試合にも出られてなかったので、まずは出場することを目指していました」

【迷ったら父に電話で相談する】

── 今シーズンの初頭は、オリンピック後の波に乗っていける感覚もあったのでは?

「たしかにオリンピック後は、気持ち的に『波に乗って行こう』という感じでシーズンを迎えたんです。でも、1試合目にスタメンで出場したあと、プレーは別に悪くなかったんですけど、トゥウェンテの試合からベンチになって......。前向きな気持ちはあるのに、なぜかプレーがついてきてなくて、ふわふわっとした感じでした」

── なぜ、気持ちと身体が噛み合わなかったのでしょう?

「プライド......みたいなもんじゃないですかね」

── プライド?

「自分はここまでできるって思っているけど、実際にやってみたら、あんまりできてない。でも、そのできてない自分を認めたくない......そういう心があったからじゃないですかね」

── それに気づいて、まずは自分を認めるところからスタートした。

「そうですね。自分に何ができないかを見返したり、誰かに相談したり、そういうのも必要じゃないかなって思いました。試合に出られなくなると、最初はいろいろと言い訳して、『こうだから出られないんだ』みたいに考えていくんです。ちょっとケガしているし、とか、チーム状態がこうだし、とか。

 ただ、心の中でそういう言い訳を考えるんですけど、そのうちに自分が試合に出られない理由はそういうことではない、とわかってくる。そんな時、僕はちょっと迷ったら、親に電話をするんです。父が相談に乗ってくれるんですよ」

── お父さんはどういう返事を?

「子どもの頃と違って、今は厳しいことを言われないです。

だけど、いろんなサッカー関連の記事を引っ張り出してきて、『こうしてみたら?』とアドバイスしてくれます」

── どういう記事だったか、覚えていますか?

「なんだっけな......たしかドイツ代表のメンタルコーチの記事だったような。『プレーは毎回どうこうすることがあるけど、そういう時はマインド的にこうしたら?』というものでした」

【故郷として感じるのは「新潟」】

── 三戸選手と同じくJFAアカデミー出身の谷川萌々子選手(バイエルン)も、お父さんによく電話するらしいです。

「そうなんですか? 僕らって中学校から親もとを離れているので、昔からけっこう試合の内容とかを電話で話すんですよ」

── JFAアカデミーからも「家族に報告してあげなさい」と言われたりしていました?

「いや、そういうわけではないんです。ふだんは対面で話せないぶん、学校のことや私生活を電話で伝えるクセみたいなのがあると思うんですよね。もちろんアカデミーの生徒全員じゃないですけど、自分はそういう電話をするタイプです。

 学生時代は寮生活で、携帯が使える時間も限られていたので、必然的に家族優先で電話をしていました。年齢的に『めんどくさいな』って思った時期もありましたけど、今はぜんぜん。この習慣があってよかったなと思っています」

── 離れているぶん、両親や故郷への思いも増しますか?

「いやそれが、故郷として感じるのは『新潟』なんですよね(三戸は山口県宇部市出身。アルビレックス新潟には2020年から2023年まで所属)。サポーターへの思いがあります」

── アルビレックス新潟のファンは熱狂的ですし、数も多いですよね。JFAアカデミーとはまったく違う環境だったと思います。

「高校生の時はSNS禁止で、LINEもダメな時期があって、twitterは途中からオッケーになったけど、インスタは最後までできなくて。だからファンから応援のメッセージをもらったこともなかったので、新潟でのプレー後の反響の大きさに驚きました。

JFAアカデミーも特殊な環境でしたけど」

── JFAアカデミーは普通の高校生活ともちょっと違いますよね。

「入学を決める小学6年生の頃は、そんなこともまったく考えてなかったです。レベルの高いところでサッカーをしたい選手が全国から集まるって聞いて、JFAアカデミーに行きたいなって。サッカーがうまくなりたいだけの気持ちで入学しました。

 中学時代は地元の中学校に通っていたので、その時は普通のクラスメートも周りにいたんですよ。ただ、高校だけがちょっと特殊(プロ志望の生徒のみで構成されたコースに所属)で、最初はホームシックにもなりましたけど、6年間通してめちゃめちゃ楽しかったです」

【斉藤光毅「俺と同じタイプが来た」】

── 新潟に3シーズン在籍したあと、昨年1月にオランダのスパルタ・ロッテルダムへ完全移籍しました。

「ずっと海外には行きたかったですけど、最初はそうすんなり行けるとは思ってなかった。行けるタイミングがあったら行きたいなっていう感じでしたね」

── そのタイミングが来たのはパリオリンピックの半年前。リスクは考えませんでしたか?

「言っていることが矛盾するかもしれないですけど、ずっとオリンピックを目指してきて、このまま日本で試合に出続けるか、もしくは海外に挑戦するかと考えた時、絶対に早く海外に行くべきって思ったんです。

 それでオリンピックに出られなくても、一番の目標はA代表に入ることなので、そこに行くためには早く海外に行かないと、という思いが前提にありました。だから『オリンピックに出られなくなるかも』というリスクはあまり考えなかったですね」

── 当時はスパルタ・ロッテルダムで斉藤光毅選手(現クイーンズ・パーク・レンジャーズ)が先にプレーしていましたが、彼は「俺と同じタイプが来た」と思ったそうです。そういうことも考えました?

「今あらためて思ったら、その時はそこまで考えてなかったですね。

光毅くんとポジションが被るなんて。『オファーが来たから行きたい!』っていう、ただ単純にそれだけ。でもたしかに、かぶってますね(笑)」

(つづく)

◆三戸舜介・後編>>「三笘薫や伊東純也を超えるために欠けているもの」


【profile】
三戸舜介(みと・しゅんすけ)
2002年9月28日生まれ、山口県宇部市出身。中学校進学と同時にJFAアカデミー福島に加入。2020年から特別指定選手としてアルビレックス新潟の練習に参加し、翌年に加入する。同年2月のギラヴァンツ北九州戦でJリーグデビュー。2024年1月からオランダのスパルタ・ロッテルダムでプレー。日本代表には2017年より各カテゴリーで選ばれ、2019年のU-17ワールドカップ、2024年のパリオリンピックに出場。ポジション=MF。身長164cm、体重60kg。

編集部おすすめ