連載第51回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は5年前に亡くなったディエゴ・マラドーナを取り上げます。
【やはりマラドーナこそが最高だ】
20世紀のサッカーを代表するサッカー選手と言えば、アルフレッド・ディ・ステファノ(アルゼンチン/レアル・マドリードなど)、ペレ(ブラジル/サントスなど)、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン/ボカ・ジュニアーズ、ナポリなど)の3人だろう。これに、フランツ・ベッケンバウアー(西ドイツ/バイエルンなど)やヨハン・クライフ(オランダ/アヤックス、バルセロナなど)を加えてもよい。
そして、21世紀にはリオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナなど)が現われた。
アルゼンチンという、人口約4500万人の国から3人が名を連ねているのだ。アルゼンチンは、サッカーの世界ではまさに「神に選ばれし国」なのである。ちなみに、先日亡くなったローマ教皇フランシスコは、ブエノスアイレスの古豪、サン・ロレンソ・デ・アルマグロの熱心なソシオだった。
アルゼンチンでは「最高の選手はマラドーナか、メッシか?」という論争も盛んだ。ディ・ステファノはW杯で活躍していないなどさまざまな事情によって、最高の選手はふたりに絞られる。
答えは世代によって違うはずだ。
今の若いファンにとってはメッシこそが至高の存在だろう。
しかし、マラドーナの現役時代を知っている者にとっては、やはりマラドーナこそが最高だ。かつて、アルゼンチンユース代表のウーゴ・トカリ監督は、自ら率いるチームの選手をマラドーナと比較して質問した外国人記者に対して、「マラドーナというのは唯一無二なのだ」と本気で怒っているのを見たことがあるが、僕もまったく同感。
クラブレベルでも、代表レベルでも、ゴール数ではメッシのほうがかなり上回っている。テクニック面を比べても、とくにゴールに直結するフィニッシュではメッシのほうがうまい。
一方、マラドーナは自らが得点することでも天才だが、同時に得点をアシストしたり、あるいはゲーム全体の流れを支配する選手だ。メッシが、相手DFやGKの動きをコントロールして数々のスーパーゴールを生み出してきたのに対して、マラドーナはピッチ全体の22人の動きを(そして、時にはレフェリーの判断をも)支配してしまう。
【10代で世界一のチームを仕切るプレー】
僕が初めてマラドーナという名前を認識したのは、1978年アルゼンチンW杯観戦のためにブエノスアイレスに滞在していた時だった。
「アルゼンチンに、10代の凄い選手が現われた」という情報は日本にいる間にも聞いていたが、詳しいことは知らなかった。日本では、まだサッカー人気は高まっていなかったから報道も少なかったが、おそらく欧州でもマラドーナのことを詳しく知っている人はそれほど多くなかったのではないか。
今だったら、マラドーナのような選手が現われたら、世界中で動画が共有され、子どものうちから欧州のビッグクラブが獲得競争を始めるだろう。だが、半世紀前の南米大陸は日本からはもちろん、欧州からも遠い存在だった。第一、欧州のほとんどの国では外国人選手枠が厳密に定められていた時代だ。
ブエノスアイレス滞在中はアントニオ太田さんという日系人のお宅に世話になったのだが、早速話題になったのが「マラドーナ」という名の少年の話だった。アルゼンチンの人が「彼は特別」と言うのだから、どんなプレーをするのか見てみたかった。
だが、アルゼンチン代表のセサール・ルイス・メノッティ監督は、W杯開幕前に、最後の最後でマラドーナを代表から外してしまった。「経験不足だったから」とも、「メノッティがマラドーナの才能に嫉妬したから」とも言われたが、メノッティ監督はスーパースターに頼るのではなく、クレバーな選手を集めて集団的に戦うことを目指していたから、マラドーナは不要だったのかもしれない。
残念ながら、アルゼンチン滞在中にはテレビで少年時代のプレーを見ただけで、マラドーナのプレーを見ることはできなかったが、幸いにも、僕は翌1979年にはマラドーナを生で見ることができた。
ワールドユース大会(現U-20W杯)の第2回大会が日本で開催され、アルゼンチンはメノッティ監督が率いる最強チームで参戦。「10番」を付けて、マラドーナが大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)や旧・国立競技場でプレーした。そして、マラドーナとラモン・ディアスなどの活躍で、アルゼンチンは6戦全勝と圧倒的な強さで優勝した。
マラドーナはこの時、実はもうフル代表でもレギュラーになっていた。
1979年の夏にアルゼンチンは欧州に遠征。マラドーナは、中心選手として活躍していた。
当時は、そんな試合が日本では放映されることはなかった。しかし、僕はマラドーナがどんなプレーをしたのかどうしても見たかったので、欧州の業者からビデオテープ(VHS)を取り寄せた。
スコットランド戦では、マラドーナがフル代表で最初のゴールを決めた。
試合は全体としてアルゼンチンが支配しており、3対1で勝利したのだが、もちろん、アルゼンチンがリズムを失う時間もある。相手に支配されると、マラドーナはスルスルとポジションを下げてプレーし始めた。中盤の深い位置で周囲と短いパスをやり取りすることによってボール保持率を高め、リズムを取り戻すと、マラドーナは再び前方のポジションに移って、攻撃のタクトを振るい始める。
W杯で優勝したアルゼンチン代表チームを、まだ19歳のマラドーナが仕切っていた。
【W杯優勝、涙の準優勝、薬物疑惑】
その後のマラドーナのことは、世界中の誰もが知っている。
1982年のスペインW杯は失意の大会となったが、1986年メキシコW杯はカルロス・ビラルド監督の守備的なチームのなかで攻撃の全権を任されて、「神の手」ゴールや「5人抜き」など歴史に残るプレーを披露し、アルゼンチンを2度目の優勝に導く。そして、4年後のイタリアW杯では満身創痍の状態ながら再び母国を決勝まで導いたものの、ローマ・オリンピコでの決勝戦では西ドイツに4年前のリベンジを許し、マラドーナは激しいブーイングを浴びながら表彰式で涙に暮れた。
マラドーナは代表から引退したが、4年後のW杯南米予選でアルゼンチン代表が敗退の危機に見舞われると、急遽、代表に復帰する。
アルゼンチンは大陸間プレーオフに周り、オーストラリアとホーム&アウェーで戦うことになった。
第1戦はアジア最終予選最終日、つまり日本にとっての「ドーハの悲劇」の3日後にオーストラリアのシドニーで行なわれた。僕はドーハからマレーシア経由でシドニーに向かって、そこでマラドーナがプレーする姿を見た。
アルゼンチンは1対1の引き分けでアウェーゲームを乗りきり、1週間後にブエノスアイレスで行なわれたセカンドレグに勝利して本大会進出を決めた。ただし、アレックス・トビンのオウンゴールによる「薄氷の勝利」だった。
そして、1994年のアメリカW杯ではナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナから薬物が検出され、マラドーナはチームを離れ、アルゼンチンはラウンド16で敗退してしまう。
この時の薬物疑惑だけではない。マラドーナは、隠し子騒動や発砲事件などで世間を騒がせ続けた。
【最後までヒール的な存在】
「ビジャ」と呼ばれるブエノスアイレスの貧民街出身のマラドーナは、少年時代から家族を支え、そして、10代の終わりからはアルゼンチン代表の運命を握り続けた。あの国におけるサッカーの社会的重要性を考えたら、それはまさに国を背負って立つということだ。しかも、フォークランド(マルビナス)諸島を巡る英国との戦争に敗れ、長い軍事独裁政権が倒れて経済的な苦境に陥ったこの時期。アルゼンチンという国の名誉はサッカーの代表チームに懸かっていた。
そんなあらゆる重圧が、ディエゴ・アルマンド・マラドーナという人物にのしかかったのである。
ペレや、メッシが、紳士として振舞い続けたのに対して、マラドーナは最後まで"ヒール"的な存在であり続けた。それも、ある意味で彼に対する崇拝の念の源になっている。
同じアルゼンチン出身の反骨の革命家チェ・ゲバラと並んで、ディエゴ・アルマンドも体制に異を唱え続けるためアイコンとして崇められ続けたのである。
時空や対戦相手の心理を自在に操るかのようなプレーの数々、そして、常に世界の貧しい者たちの側に立つ数々の振舞い......。
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