学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】小林悠インタビュー2回目(全3回)
◆小林悠・1回目>>泣きじゃくった高2の大晦日「めっちゃ青春」
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意識は、自ら変えようとしなければ、決して変わることはない。練習で最後尾を走っていた少年が、高校に入って前を走ろうと決意して、たくましくなったように──。また意識は、1日やそこらで劇的に変わるものではない。続けることで本人も気づかぬうちに変化を帯びていく。いつしか、その熱は周りをも動かし、巻き込み、そして大きな力になっていく。
思い起こせば、「シルバーコレクター」と揶揄されていた川崎フロンターレが、2017年のJ1リーグ初優勝を皮切りに7つのタイトルを手にした背景には、小林悠の「あきらめの悪さ」と「周囲を巻き込む熱量」があった。
彼は大学時代に身をもって、それを経験していた。
麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高校)を卒業した小林は、悩んだ末に、次の進路として関東大学2部リーグだった拓殖大学を選択する。
いくつかの大学に練習参加しながらも拓殖大を選んだのは、高校の1学年上のキャプテンがいたことと、保育園からの幼馴染みが先に進学を決めていたことが動機になっていた。
そこは当時の自分を少しばかり省みて言う。
「高校の時からプロになることを意識してサッカーを続けてきた選手たちとは異なり、自分は何もわからないまま大学を選んでしまった。
それでも「悩んだ末に」と表現したのは、社会人リーグで活動する海上自衛隊のチームから声がかかっていたからだ。働きながらサッカーを続ければ、これ以上、親に迷惑をかけることはない。苦労をかけてきただけに、そうした思いもあった。
【プロを意識した太田宏介の存在】
だが、本心は別のところにあった。奨学金制度を利用するからと親を説得して、大学に進んだのは、かすかな野望を抱いていたからだ。
「なんか、辞められなかったし、あきらめられなかったんですよね。子どものころからずっとサッカーをやってきていたので、スッと辞められなかったというか。まだ蹴りたいな、みたいな。
そこには、(プロになる)可能性がゼロではない、という思いもありました。ホント、ごくわずかですよ。もしかしたら、1パーセントにも満たないかもしれない。だから、周りにはなかなか言えなかったけど、自分のなかでは続けていれば、ワンチャンあるんじゃないかと思っていました」
自分の可能性にフタをしなかったのは、近しい存在の影響もあった。
「宏介の存在は大きく、やっぱり一目置いていました。その一方で、宏介が高校を卒業してプロになることが決まった時、すごいはすごいと思いましたけど、身近にいる宏介が手が届いたのであれば、自分だってがんばれば届くんじゃないかとも思ったんです。だから、宏介には『おめでとう』も、『うらやましい』もあったけど、同時に『俺もなれるんじゃないか』という希望ももらいました」
1パーセントでも残されているならば、自分の可能性にかけたい。
「だから大学に進んだ時は、サッカーを続けるからにはプロを目指そうと思っていました」
関東1部リーグではなく、2部だった拓殖大を選んだのは、本人も語るように18歳の甘さであり、矛盾とも言えるだろう。だが、「その選択」も「あきらめの悪さ」も、川崎での未来につながっている。
「でも、大学のサッカー部は、想像していたものとはまったく違いましたね」
高校のサッカー部とは異なり、大学のサッカー部は自立した大人の集団だったことに圧倒されたのだろうと思ったが、違った。
「いや、悪い意味で、です。入ってすぐに、チャラチャラしているなって思いましたから。だって、ケラケラ笑いながらサッカーやっているんですよ。それがもう信じられなかった。高校では真剣に取り組んできたサッカー部のイメージが根底から一気に壊れるような感覚でした」
【サッカー人生が変わった瞬間】
1学年上のキャプテンだった高校の先輩からも「驚くと思うよ」とは言われていた。ただ、実際に見た現実は、想像していた世界とはあまりにかけ離れていた。
「だって、パチンコが当たっていたから遅れたとか言って、練習に来るんですよ。もう、僕からしてみたら意味がわからない。ふざけんなよって思いましたよ。
何にイライラしたかって、ボールを蹴ったら、みんなうまいんですよ。でも、高校で燃え尽きてしまったのか、とにかく真剣にサッカーをやる雰囲気じゃなかった。僕からしてみたら、うまいのに何でちゃんとサッカーしないのかがわからなかった」
1年生という立場を忘れて、3、4年生に向かって発していた。
「おい! ちゃんとやれよ!」
「あきらめの悪さ」は、ここで流されなかったところにある。ラクなほうに身を委ねるのでもなく、その環境に甘えるのでもなく、小林はあえて荒波に飛び込んだ。
オセロの駒を黒から白へと、ひとつずつひっくり返していくように、小林は訴え続けると、次第に周りも反応してくれるようになった。
「キャプテンを含めてサッカーに対して真面目に取り組んでいる選手たちが、自分たちでサッカー部をよくしていこうと変わっていって。そのタイミングで、コーチとして柱谷幸一さんが指導に来てくれるなど、徐々に雰囲気や環境も変わっていったんです。
1年生の時は、自分ひとりが躍起になっているだけでしたけど、徐々に同学年の選手も試合のメンバーに入るようになって、真剣にやっていない選手はメンバーから外れて、真面目に取り組んでいる選手が試合に出られる雰囲気に、自分たちで変えていったんです」
1年生だった2006年に、関東2部リーグながら新人王に選ばれた小林は、関東大学選抜や大学1・2年生選抜チームに選ばれるようになる。
「そこで一気にサッカー人生は変わりました」
プロになるために──選手としての意識は、より高まる契機になった。
「1・2年生の選抜チームで韓国遠征に行ったんですけど、2部リーグから選ばれたのは自分ともうひとりくらい。ほかは1部リーグの選手たちで、試合をしたこともないくらいでした。でも、そのなかに入って練習や試合をした時に、『敵わない』じゃなくて、『俺、全然やれるじゃん』って思えたんですよね」
【意識を変え、訴え、周りを巻き込んだ】
選抜チームに選ばれたメンバーは、いずれもプロに進むような選手ばかりだった。プロになる同世代と互角に戦えたことは、大きな自信につながった。高校2年と3年では、県予選に臨む自信が大きく違っていたように、選抜チームで得た自信は、小林を大きく飛躍させた。
「そこから明確にプロを目指すようになりました」
さらに意識が変わると、練習の姿勢だけでなく、栄養面も気にするようになった。
「食事についても、たとえばみんなは天ぷらうどんとかを食べていたとしても、自分はうどんと一緒にサラダも食べたり、タンパク質を摂るようにしたり。大学生なので、知識のないなりに調べたりして、プロになることをイメージして過ごすようになりました」
当時はまだ付き合い始めたばかりだった妻が、栄養学を学んでいると聞けば、気になったことを質問して、参考にできることは取り入れた。
2年生の時にリーグ戦で13得点を記録すると、3年生では19得点を決めて関東2部リーグ得点王に輝く。4年生になったばかりの4月には、川崎への加入を発表し、プロへの道をこじ開けた。
「高校時代は、やっぱりまだ、監督に言われたことをやっているだけのところがありました。
だから今、大学での4年間を振り返って、2部リーグでよかったなとも思います。チームが弱かったから、強くなるためにたくさん考えたので。だって、自分がプロになるためには、一緒にプレーする周りにもパワーアップしてもらわなければいけないですからね。それに、パスが来なければ、FWはゴールを決められないですから。
そう考えると、自分だけがよければいいではなく、周りをまとめて、チーム全体をよくしていこうと考えるきっかけになっていたなと思います」
大学生活最後の2009年は、度重なるケガにより、リーグ戦にはほとんど出場できず、プレーでチームに貢献することはできなかった。
しかし、小林の熱量は周りにしっかりと伝わっていた。なぜならその年、拓殖大は2部リーグで2位になると、翌年の1部リーグ昇格を決めた。それは紛れもなく、あきらめの悪い小林が意識を変え、訴え、周りを巻き込んだ成果だった。
(つづく)
◆小林悠・3回目>>大学4年間、居酒屋のバイトリーダーで学んだこと
【profile】
小林悠(こばやし・ゆう)
1987年9月23日生まれ、東京都町田市出身。麻布大学附属渕野辺高(現・麻布大学附属高)時代は2年連続で選手権に出場し、拓殖大では在学中に水戸ホーリーホックの特別指定選手としてJリーグデビューを果たす。