連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第1回 本田武史 後編

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第1回は、日本男子フィギュアスケートの隆盛の礎を築いた本田武史(44歳)にインタビューを行なった。

後編では、現役時代晩年の苦悩や現在のフィギュアスケートに思うことを聞いた。

レジェンド本田武史が現代のフィギュアスケート界を語る「次のス...の画像はこちら >>

【新ルール対応に苦慮、そして大ケガ】

ーー2002年と2003年世界選手権は連続で3位でした。そして2003−2004シーズン、新採点方式になったGPシリーズは3位と2位で表彰台に上がりましたが、そのあとはケガで試合に出られませんでした。

本田武史(以下同) 新ルールで4回転ジャンプの価値がほとんどなくなったんです。その翌シーズンは少し変わったけど、4回転トーループの基礎点がトリプルアクセルより0.5点高いだけの8.0点とか。ショートプログラムでノーミスをしても70点台で、4回転を入れても合計は200点にやっと乗るだけという時代でした。それにスピンやステップでもやることがものすごく増えた。

 若い選手たちはそのルールで育っているけど、シニアで10年も経っている選手がいきなりスピンでシットサイドと言われても......「何じゃそりゃ」っていう。新ルールに対応するのはかなり苦労して、ちょっと油断した時の大ケガでした。左足は疲労骨折を2カ所していました。

ーー世界選手権で上位に入っていただけに、「よし、トリノ五輪へ!」という気持ちは強かったでしょう。

 そう思っていましたね。でも、ケガだけだったらまだよかったけど、試合を休めなかったんです。

五輪出場の枠取りを続けなければいけないのと、ケガをしていて1枠に減った場合に、翌年自分が戻ってこられる保証はないので2枠は絶対取りたいと。「自分のために」という考えだったので試合を休むことはなかった。

 2年連続3位だったというのもあって、よほどボロボロにならなければ10位以下に落ちることはないだろうという自信はありました。あとは自分の性格上、限界をわからないで突破しちゃうんです。まだできるだろうと思ってやって、気づいたら倒れるみたいな。そういうのは多かったですね。

ーーそれがトリノ五輪の枠取りがかかった2005年世界選手権で出てしまいましたね。

 予選でケガをしたけど、あの時は左足疲労骨折プラス靱帯損傷までいっていた。もう靱帯が伸びきった状態なので何もできなかったです。テーピングしても無理だったし、痛み止めを飲んでもダメだったので復活はできなかった。なぜここまでやらなくてはいけないんだとも思ったけど、その時は持ってあと1年だろうと考えた。

 もしトリノ五輪へ出られてもそこで引退だと思っていたので、翌シーズンは「今シーズン限りで引退します」と宣言してから始めました。

2005年の世界選手権は高橋大輔がひとりで戦いましたが、結果的には彼が強くなる要因になったと思う。ひとりで戦うつらさを彼も感じたと思います。

【自分の時代にあったら...現在のフィギュア界に思うこと】

ーー自身の競技人生を踏まえて考えると、今のフィギュアスケート界はどう思いますか。

 選手層がすごく広がったなと思います。2023年の全日本選手権を見ても最終グループはほぼ全員ノーミスという、あれだけの"神大会"というのはなかなかない。ライバルも多くてお互いに競い合いながら成長していくところは、自分の時にあったらどうだったのだろうなと考えたりします。

ーーしかし、そんな日本男子の層の厚みを生み出すきっかけも、本田さんの存在があったからこそ。

 一番思ったのが、昔は全日本選手権を土曜と日曜しかやらなかったので男子は朝8時から試合で昼には終わっていたんです。その後、キス&クライをつくったりして、すごく腹が立ちましたね(笑)。僕の頃の全日本はキスクラ自体がなくて、リンクサイドで電光掲示板を仰ぎ見て点数を待つ時代でした。

 だから、「代々木体育館で全日本開催」となった時は「はぁ?」と思って(笑)。でも、だからこそ当時のフィギュアスケート関係者がすごく頑張って育てようとしてくれたし、人前で滑る機会が少ないからと『ドリーム・オン・アイス』や『メダリスト・オン・アイス』を新設してくれたりしました。そういう努力があって、みんなが育ってきた部分もあると思います。

ーー女子も荒川静香の世界選手権優勝(2004年)あたりから続々と新しい選手が出てきたし、男子も高橋大輔のあと続々と選手が出てきました。

 新人発掘の野辺山合宿一期生で、荒川もいたんです。伊藤みどりさんの銀メダル(1992年アルベールビル五輪)以降に新人を発掘しようと始まったけど、それを続けてきたことが大きな要因になっているのはたしかだと思います。ただ、大きな波が確実にあるから、今は次のスターが出ないと難しくなるかなとは思うし、インストラクターをやっていてもスケート教室に入ってくる選手がものすごく減っているのは気がかりです。

【ある環境のなかで工夫する大切さ】

ーー最近では通年リンクも新設され、環境も改善されているとは思います。

 今年7月に「シスメックス 神戸アイスキャンパス」や「ゼビオアリーナ(仙台市アリーナ)」がオープンして、9月には「東京辰巳アイスアリーナ」もできるのでリンクが増えているのはたしか。でも、一方で閉鎖するリンクもあります。もちろんリンクの存続という面では一般滑走もやらなければいけない。仙台で練習していた時も貸し切りもあったけど、一般滑走で人が多いなかでジャンプを跳んでいたし、伊藤みどりさんもそうだったから人がいても跳べるという感覚をつけなければいけないと思います。

 トップ選手になると個人で貸し切りもできるけど、それをジュニアなど若い選手は当たり前だと思わないでほしいです。全国にアカデミーもできましたが、そこでの当たり前の環境は当たり前じゃない。今指導している先生たちが環境の整っていない時代を生きてきたからこそ、知識を深めたし、工夫もできた。

 カナダやアメリカにはリンクがいっぱいあって安い値段で好きなだけ滑れるんですが、子どもたちは意外と行かないんです。だからやっぱり、環境を言い訳にはしないほうがいいと思いますし、やっぱりみどりさんから浅田真央にトリプルアクセルがつながったような歴史は学んだほうがいいのではないかな。

 環境を整備するのはすごくいいと思いますが、昼間は学校に行って練習は朝と夜しかない日本でこれだけ選手が出てきたというのは、ある環境のなかで工夫してやっていたからだと思います。坂本花織は今も一般滑走でお客さんがいるなかで練習して世界チャンピオンに3回もなっているんですから。それを忘れないでほしいですね。

 海外では、リンクはあるけど指導者が育っていない面もある。カナダは今、選手が出てきてないけど、アメリカはなぜかグンと上がってきている。それだけ教える人材がいるということだし、そこの差が大きいということだと思います。

(文中一部敬称略)

終わり

<プロフィール>
本田武史 ほんだ・たけし/1981年、福島県生まれ。現役時代は全日本選手権優勝6回。長野五輪、ソルトレイクシティ五輪出場。2002年、2003年世界選手権3位。

現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演するかたわら、コーチや解説者として活動している。

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