世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第22回】フランク・ライカールト(オランダ)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲づかみにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。
第22回は、1980年代後期~1990年代前期にミランで一時代を築いたオランダトリオの一角「フランク・ライカールト」のサッカー人生を振り返る。センターバックからボランチ、そして攻撃的MFと、あらゆるポジションに対応するサッカーセンスは群を抜いていた。もっと評価されてしかるべき「現代サッカーの申し子」だった。
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2020年1月、オランダは「呼称をネザーランズ(Netherlands)に統一する」と発表した。残念ながら日本では、依然として「オランダ」である。大手メディアが先導してネザーランズにあらためるか、このままオランダで突き通すか(オランダ政府は変更を強く求めていないとのこと)。ネザーランズは日本語に直訳すると「低い土地」。しかし、フットボール界では「高い土地」──いわゆる強国だ。1980年代後期には3人の名手が現れている。ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、そしてフランク・ライカールトだ。
この3人を表記する時、順番にヒエラルキーを感じる。
だが、ミランでもオランダ代表でも、最も貢献度が高かったのはライカールトだ。フットボールをよく知り、現役生活の晩年は若手を高みに導いた。監督や同僚とのトラブルが絶えなかったフリット、負傷との戦いに疲弊したファン・バステンと比べても、ライカールトこそが真の勝者と言えるのではないだろうか。
【インタビューを断った意外な理由】
彼の名が広く知れ渡ったのは、1988年のヨーロッパ選手権(EURO)だ。主にセンターバックとして活躍。守るだけではなく、最終ラインからの攻撃参加でオランダを活性化した。
ソ連(現ロシア)との決勝は、ファン・バステンが角度のないところから決めたボレーが大きなインパクトを残しているが、その一方でライカールトはオレグ・プロタソフを完封している。オランダ初となるメジャータイトルの獲得を、陰になり日向になり支えた。
ヨーロッパ選手権のハイパフォーマンスが高く評価され、1988年夏にレアル・サラゴサからミランに移籍。
アリゴ・サッキ監督に率いられたミランは、ゾーンディフェンスとハイプレスで世界の最先端を走っていた。この高度なカルチョに、ライカールトは即フィットする。フランコ・バレージが操る最終ラインの前で、攻守のバランスを絶妙なまでに整えていた。
フリットの存在感、ファン・バステンの得点感覚もさることながら、中盤の底に位置するライカールトこそがミランの肝、と言って差し支えなかった。知性的で高度な状況判断、柔軟で強靭な肉体、スピード......など、各方面から「世界最高のMF」との賞賛が絶えなかった。
1988‐89シーズンにチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制し、1989年と1990年はトヨタカップを連覇。さらに1991-92シーズンと翌シーズンもミランはセリエAの頂点に立った。その中核を担っていたのがライカールトであり、滅多に選手を褒めないサッキ監督をして「トータルに優れたMF」と言わしめたほどだった。
サッキ監督の言葉を借りるまでもなく、ライカールトはすばらしいMFだった。多少の自己アピールなら許されるレベルでありながら、表に出ることを嫌がった。
「面白い話ができないので、インタビューはお断りします。ファン・バステンやフリット、バレージのほうが有意義なインタビューになると思います」
「時間がないから」とか「疲れているから」との理由で断られた経験はあった。しかし「話が面白くないから」は初めてだった。その後、懸命に食い下がり、15~20分ほどの時間を割いてもらったが、ミランの戦術、練習内容を丁寧に説明してくれた。ささやくように、小さな声で......。
【ミランとのCL決勝で有終の美】
「若手の手本になってくれないか」
1993-94シーズン、ライカールトはルイ・ファン・ハール監督に口説かれて、古巣アヤックスに復帰する。エドガー・ダーヴィッツやクラレンス・セードルフなど、のちにオランダ代表の主軸となったタレントにフットボールの奥深さを伝授する役割を担った。
効果はすぐに出た。エール・ディヴィジのタイトルを4シーズンぶりに取り返すと、翌1994-95シーズンはチャンピオンズリーグの舞台に戻ってきた。
32歳になったライカールトのプレーは円熟味を増し、アヤックスの若手を自由自在に動かした。押さば引け、引かば押せ──。試合の勘どころを心得たコントロールが際立っていた。
グループステージを4勝2分無敗で突破すると、準々決勝ではハイデュク・スプリトを合計スコア3-0で退け、準決勝ではバイエルンを5-2で叩きのめした。
アヤックスをファイナルで待っていたのはミランである。ライカールトにとって感慨深い相手だ。思い出は美しく、記憶の片隅をつついただけで涙がこぼれ落ちる。いや、感傷的になっている場合ではない。勝負に徹しなければ負ける。
前半はミランのペースだった。GKエドウィン・ファン・デル・サールの好守がなければ、アヤックスはリードを奪われていたに違いない。しかし、選手交代によって流れが変わった。
53分、セードルフ→ヌワンコ・カヌ、68分、ヤリ・リトマネン→パトリック・クライファート。ファン・ハール監督はバランスを度外視し、より攻撃的な陣容にシフトした。
ベンチのメッセージを敏感に感じ取ったのがライカールトである。
マルク・オーフェルマルスのパスを受けたライカールトが、クライファートにパス。18歳の新鋭FWはバレージとズボニミール・ボバンをかわし、貴重な1点をもぎ取った。
【まさかのバロンドール投票10位】
ゴールの瞬間、ライカールトを「兄貴」と慕った若者たちの喜びが爆発する。滅多に感情を表に出さない兄貴も、笑顔で応じた。
そして、このチャンピオンズリーグ決勝を最後に現役引退。文字どおり有終の美を飾った。
八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍でミランに、アヤックスに多くのタイトルをもたらしたにもかかわらず、ライカールトは個人賞に恵まれなかった。フットボールの七不思議だ。かつての僚友も慮(おもんぱか)っている。
「1992年のバロンドールの投票で、ライカールトが10位とは理解しがたい。
ファン・バステンの評価こそが、真の実力とヒエラルキーを証明している。ライカールトは、まごうことなき飛びっきりの「才」だった。