Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第2回】エバートン(横浜マリノス)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第2回はJリーグ開幕前の1990年から1994年まで、日産自動車→横浜マリノスに在籍したエバートン・ノゲイラを紹介する。セレソンに招集されたことのない無印のブラジル人MFは、たくましいほどの献身性でチームに欠かせない選手となっていった。

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横浜マリノス黎明期「最高の黒子」エバートン 技術は平均レベル...の画像はこちら >>
 Jリーグの初ゴールを叩き込んだのは、ヴェルディ川崎のヘニー・マイヤーである。左サイドからゴール右上へ、豪快なミドルシュートだった。

 その試合で決勝ゴールを決めたのは、横浜マリノスのラモン・ディアスである。水沼貴史のシュートを相手GK菊池新吉がセーブしたこぼれ球に反応し、ゴール前に現れて左足でプッシュした。Jリーグの歴史に残るメモリアルな一戦は、マリノスが2-1で勝利したのだった。

 では、1993年5月15日に行なわれたこの一戦で、マリノスの同点弾を決めたのは?

 ブラジル人のエバートン・ノゲイラだ。

 0-1とリードされた後半、木村和司のショートコーナーをペナルティエリア左角で受けると、GKとゴールカバーのラモス瑠偉の頭上を破り、右上隅へ正確に蹴り込む。チアホーンが鳴り響く国立競技場で、愛称「エベ」は歓喜を爆発させた。

 試合後の取材エリアでも、興奮は残っていた。

弾むような声で答える。

「新しいプロリーグの開幕戦という舞台で、これまで何度も競った試合を演じてきた相手から、自分がゴールすることができてすごくうれしいです。チームにとっても、この試合はファーストステージの18試合のひとつですけれど、やはり勝ってスタートできるのはとても価値があると思います」

【チーム屈指のハードワーカー】

 来日はJリーグ開幕前である。Jリーグ開幕前の日本サッカーリーグで、静かにキャリアを編んでいった。

 大舞台に強い、との印象がある。

 横浜マリノスとなる前の日産自動車サッカー部は、エバートンの加入後2シーズン連続でリーグ2位にとどまった。ライバルの読売クラブの後塵を拝したのだが、天皇杯では強さを発揮する。1992年元日の決勝で読売クラブを4-1で退け、1993年元日の決勝でも読売クラブを延長線の末に2-1で勝利。エバートンはどちらの試合にも出場し、はっきりとした存在感を放った。

 日本リーグ(JSL)からJリーグへ移行するタイミングの日産は、世代交代を進めるタイミングにあった。日産と日本代表を長く牽引してきた木村や水沼が健在ぶりを示していた一方で、野田知、財前恵一、松橋力蔵、山田隆裕、神野卓哉といった若いMFやFWを、計算できる戦力にしていく必要があった。

 過渡期を迎えているチームで、エンジンとなったのがエバートンである。

 ボールコントロールは平均的なレベルだった。

ドリブルはなめらかさを感じさせるものではなく、ゴツゴツとした印象だった。「ブラジル人=技術に優れる」という一般的な考えは、エバートンには当てはまらなかったと言っていい。

 それでも、ピッチ上での存在感は圧倒的なのだ。すでに30歳を過ぎていたが、タフでエネルギッシュなのである。

 とにかくひたむきで、あきらめることがない。ネガティブトランジション(攻撃から守備への切り替え)では、チームの誰よりも早く帰陣して、ボールに食らいついていった。ボールのあるところにはいつもエバートンがいる、と言いたくなるほどなのだ。

「労を惜しまない」という表現が、彼ほど当てはまる選手もいなかっただろう。その献身的なプレーぶりは、感動的ですらあった。日産、マリノス黎明期の背番号7と言えば、個人的にはエバートンなのである。

 チーム屈指のハードワーカーは、プレースタイルを徐々にアップデートすることにも成功する。シーズンを重ねるごとに得点数でキャリアハイを更新し、1992年のナビスコカップでは9試合で7ゴールを記録した。

10ゴールの三浦知良に次ぐ2位タイの成績を残す。

【アルゼンチン勢の加入によって】

 監督とコーチの立場でエバートンを見てきた清水秀彦氏に、彼の得点能力について聞いたことがある。「外国人には、わりといるタイプなんだよな」と、少し笑みを浮かべた。

「練習では、そんなにシュートはうまくない。でも、試合になると決めるんだよね。そういう外国人って、けっこういるものでさ。あれは何なんだろうね。俺にもよくわからないから、本人に聞いてみてよ」

 もちろん、本人にも聞いてみる。清水の言葉を伝えると、「僕自身は練習でもちゃんとやっているんですけどね。マリノスはGKもDFも日本代表が多いから、練習だとなかなか決まらないのでは?」と笑った。

 1993年当時のチームには、GK松永成立、CB井原正巳、CBと右SBを兼ねる勝矢寿延と、3人の日本代表が揃っていた。元日本代表の平川弘、のちに日本代表となる小村徳男もいた。

簡単には得点できないというエバートンの言い分にも、うなずけるところはあった。

「それはともかく」と、エバートンが言葉をつなぎ、キリッという音がするように表情を変えた。

「(木村)カズシさん、(水沼)タカシさん、去年までこのチームにいたレナトもそうですけど、シュートのうまい選手がたくさんいて、彼らと一緒に練習をしていたら、どんどんうまくなっていったんです。でも、ブラジルでも点は取っていましたよ」

 エバートンは間違いなく円熟期を迎えていた。しかし、1993年のJリーグ開幕とともに、マリノスはセリエAで活躍したFWラモン・ディアス、攻撃的MFダビド・ビスコンティを獲得した。10月には守備的MFグスタボ・サパタを呼び寄せた。アルゼンチン人によるトライアングルが完成したのである。

 翌1994年には、メンチョことラモン・メディナベージョもマリノスの一員となる。同年のワールドカップに出場する現役アルゼンチン代表ストライカーも加わったことで、チームの方向性は客観的に見ても明らかである。ピッチに立つことのできる3つの外国人枠を、4人のアルゼンチン選手がシェアすることとなったのだ。

 エバートンは1994年のシーズン途中に、JFLの京都パープルサンガへ新天地を求める。プロフェッショナルとしてのキャリアは、ここで幕を閉じることとなった。

 プレーする環境が与えられれば、もう少しできたのではと感じる。それでも「最高の黒子」としてマリノスを下支えした足跡は力強い。トリコロールを愛する人たちの、大切な記憶となっているに違いない。

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