ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第5回:家長昭博(川崎フロンターレ)/中編
前編◆家長昭博が「サッカー選手として成功したいと思ってたんや」と気づいた瞬間>>
セレッソ大阪で充実のシーズンを過ごした家長に、海外からのオファーが届いたのは2010年12月だ。プロになった時から漠然とながら海外でのプレーを視野に入れていたこともあり、彼は迷いなくそのオファーを受け入れる。
「正式なオファーはマジョルカだけでしたけど、即決でした。大分トリニータやセレッソに行った時も最初にオファーをくれたチームに決めたように、この時も迷わなかった。当時はロナウジーニョがバルセロナにいた時代で、リーガの試合もよく見ていたので、憧れみたいなものもあった気がします。
......って言うと、よく意外だって言われますけど、僕は結構、ふだんから海外のサッカーやJリーグの試合は映像で見ていたんです。数こそ減りましたけど、今も他チームの試合を見ることはあります。
僕の場合、観戦するというより、"観察"に近い感覚ですけど。ポジションに関係なく『そのタイミングでそのプレーを選ぶんや』とか『そういう体の使い方をするんか』みたいな。特に、変な個性がある、独自の世界観でプレーしている渋い選手が好きなので、そっち寄りの選手を見ることが多いかも。ただ、特定の誰かをずっと見ることはないです」
若い頃から、独自の感性でプレーをしてきた印象も強かった家長から「観察好き」という言葉を聞いて、思わず、最近見た選手で気になった選手はいたかと尋ねてみる。少し考えを巡らせたあと「変な個性というのは、僕にとって最大級の褒め言葉ですからね」と前置きしたうえで、答えが返ってきた。
「最近なら、鹿島アントラーズの鈴木優磨くん。彼は人間性というか、キャラクターが目を惹きがちですけど、実はサッカーがめちゃめちゃ巧い。体の入れ方とか、ボールの持ち方も的確やし、いろんなことが幅広くできる選手やなって思います。その巧さがキャラクターに隠れてしまう珍しいタイプなところも、僕は面白さと捉えて見ています(笑)」
そうして見た選手のプレーを練習で試してみることもあるという。
「観察結果を確認するみたいな感覚ですね。ただ、実際にやってみてなるほどな、とは思っても、実際に(試合で)やるかは別の話。むしろ逆に『それなら、俺はこうしておこう』って違うプレーを磨こうとするパターンもあります。だって、人と同じことをしていても面白くないから。
たとえば、現代サッカーではフィジカルが重視されていますけど、すなわちそれは、足もととかテクニックで勝負する選手が減ってきたという見方もできるので、あえて自分は後者で勝負するみたいな。世界を見渡しても、フィジカルや強度はないのに、その"希少価値"のところで勝負して、試合に出ている選手もいますしね。
つまり、サッカーの主流に応じてこれをしよう、とかって考えることはまずない。自分のなかで明確に右がいい、左がいい! みたいな正解を作ることもないです。
もちろん、チームありきの自分なので、僕なりに最低限の役割は押さえているつもりですけど、サッカーも、人生も"いい塩梅"が一番と思って生きています(笑)」
話を戻そう。
いっさいの躊躇なく飛び込んだスペインの地で迎えた2011年。シーズン途中の加入になったものの、家長は2月にリーグ登録をされると、直後のオサスナ戦で途中出場ながらラ・リーガデビュー。さらに1カ月後、3月13日のレバンテ戦で初先発し、4月のセビージャ戦で初ゴールを挙げる。
当時は、少しずつ"海外組"が増えていたとはいえ、ラ・リーガで活躍する日本人選手はほぼいなかった時代。それを考えても、家長のハーフシーズンでの14試合出場2得点はポジティブなもので、家長もそれを自信に勝負の2シーズン目に向かう。
だが、2011-2012シーズンは、前シーズンに家長を積極的に起用してきたミカエル・ラウドルップ監督が開幕直後に辞任した煽りを受けて、あからさまな構想外に。だが、その経験を含めて、このスペインで過ごした約1年半は家長にとって「初めて味わう感覚」を得た貴重な1年になった。
「結論から言うと、自分が思う自分では通用しなかったということです。正直、日本にいる時は......戦術のなかの自分ということは別として、単に個で何かを競った時に負ける気がしなかったんです。たとえば、ポーンと出されたボールにどっちが早く辿り着くのか、みたいな競争ひとつとっても、『この選手には敵わない』という感覚になったことはなかった。
でも、スペインでは、持っている資質を全部どうにか出しきってギリギリ、プレーできるって感じで、明らかに個で負けていた。表現が難しいけど、トータルして『男として負けた』みたいな。それは初めて味わう感覚で、しっかり自信をなくした、と言いきれる時間を過ごしました」
そんなふうに試合に絡めない状況が続いたこともあり、家長は2012年、活躍の場を求めて韓国・Kリーグの蔚山現代で活路を見出す。スペインで味わった挫折を、スペインにとどまって取り戻すことも考えないではなかったが、現実的にオファーはなく、また「できればJリーグ以外の世界を見てみたい」という好奇心からの韓国だった。
「キャリアで唯一の心残りというか、後悔があるとしたら、その時かも。今になって思えば、もうちょっとスペインで粘ればよかったかなと思う自分もいます」
その蔚山現代では半年間プレーしたのち、2012年夏からは約1年間、古巣・ガンバ大阪に期限付き移籍。2013年夏には再びマジョルカに復帰したが、2013-2014シーズンは7試合の出場にとどまり、家長は2014年末にマジョルカを契約満了となる。
それを受けて、次なるチームに選んだのが大宮アルディージャだった。
「実は一度、断ったんです。というのも、僕は一度経験したことにあまり惹かれないから。それもあって『Jリーグはもう、いいんちゃうか』みたいに思っていたし、それなら新しい世界を見たいという気持ちのほうが強かった。
でも、2014年から監督に就任されることになっていた大熊(清)さんが何回も電話をくださって......しかも、なんかめちゃめちゃ交渉がうまくて飲み込まれ(笑)、最後は『じゃあ、行きます!』って返事をしていました。
もっとも大宮での1年目は、悔しい記憶のほうが大きかったと振り返る。自身は出場停止の1試合を除く33試合に先発出場したものの、チームは思うように白星をつかめず、シーズンの半ばすぎまで7戦勝ちなし、10戦勝ちなしといった状況を味わうなど、苦しい戦いが続く。結果、2014シーズンを16位で終えた大宮はJ2に降格。それを受けて、家長のもとにはJ1の複数チームからオファーが届いたが、最終的には「自分はもうそのフェーズにいない」と大宮残留を決めた。
「この時の決断がキャリアで一番悩みました。シーズン終盤に、キャプテンの菊地(光将)がケガをしたので2014年はキャプテンマークを巻くことが多かったんですけど、なんていうか......自分がこれだけ試合に出てもチームが全然勝てない状況に、シーズンを通してすごく苦しんだ。
その経験をした時に『降格したから移籍する、というフェーズにはもういない』と自覚したというか。28歳という年齢、立場、責任みたいなものを含めて、移籍するならやることをやって......大宮をJ1に昇格させてからだと決めました」
腹を括って臨んだ2015年のJ2リーグは、家長の決勝ゴールで幕を開けた。相手はツエーゲン金沢。開幕戦特有の硬さも相まってスコアレスの状況が長く続いたが、86分、味方選手のヒールパスを受けた家長が右足でゴールネットを揺らす。
その試合で右膝を痛めて約1カ月の離脱を強いられるアクシデントに見舞われたため、しばらくは戦列を離れたが、第8節の大分トリニータ戦で先発に返り咲いてからは、ほとんどの試合で先発出場。チームも第15節のFC岐阜戦以降は首位を走り続けた。
そのなかで戦った第41節の大分戦は、今も彼が記憶に残している試合のひとつだ。勝てば自力でJ2優勝を決められるホーム最終戦。後半立ち上がりに2失点を喫した大宮だったが、69分、81分とムルジャがゴールを挙げて土壇場で同点に。さらに猛攻を仕掛けるなかで、87分には再びムルジャの突破が相手のファウルを誘い、PKを獲得する。
キッカーは家長。緊張が漂う場面に、笑みさえ浮かべながらボールをセットすると、鋭くゴール左上を射抜き、勝利を引き寄せた。
「過去の記憶は薄いのに、あのゴールは印象に残っています。といっても、自分のプレーがどうこうではなく、チームにとって正念場の試合、大事な瞬間に代表してPKを任せてもらえたのがありがたかった」
そういえば、当時の主軸のひとりで、この一戦はケガのためスタンドから見守っていた横谷繁(現ガンバ大阪ユースコーチ)は、のちにこのシーンについて「PKを獲得した瞬間、サポーターも含めたスタジアム全体が自然と『アキやろ』みたいな空気になっていた」と振り返っている。
その言葉はある意味、"大宮・家長昭博"としての存在感を示すもの。事実、この年、チームで2番目の11得点を挙げてJ1昇格の立役者になった家長は、翌年のJ1リーグでも自身のキャリアハイとなる11得点を挙げるなどして存在感を際立たせていく。その時間は彼に「自分の生き方」を明確にさせた。
「自分がJ1で初めてフル稼働した2014年には力及ばず大宮をJ2に降格させてしまい、自分もそのチームに残って昇格を目指して戦って、2016年のJ1ではクラブ史上最高順位となる5位でシーズンを終えられた、と。
それによって、この先サッカーで生きていくには『自分がどう生きていきたいか』という思いに従って行動するのが一番だということも明確になった。そのせいか、以来、周りからの見られ方とか、どう思われるかということも何ひとつ気にならなくなったんです。
それまでは少なからず、周りからの見られ方みたいなものを気にしていた自分もいたんですけど、それよりも『自分がどう生きたいか』だと。その芯が備わったことで......仮に世の中に対して、僕が思う"自分"とはまったく違う映り方をしたとしても、オモロイな、くらいに受け入れられるようになったんだと思います」
(つづく)
家長昭博(いえなが・あきひろ)
1986年6月13日生まれ。京都府出身。ガンバ大阪のアカデミーで育ち、高校2年生の時にトップチームへ昇格。翌2004年、J1デビュー。以降、若き天才プレーヤーとして脚光を浴びるが、レギュラーに定着するまでには至らず、2008年から大分トリニータ、2010年からはセレッソ大阪へ期限付き移籍。そして2011年、マジョルカ(スペイン)へ完全移籍。その後、2012年に蔚山現代(韓国)、古巣のガンバに期限付き移籍。2013年夏にマジョルカに復帰したあと、2014年に大宮アルディージャに完全移籍。2017年には川崎フロンターレへ完全移籍し、以降チームの主力として数々のタイトル奪取に貢献する。2018年にはJリーグのMVPを受賞。