ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第5回:家長昭博(川崎フロンターレ)/後編

39歳・家長昭博の思考「勝負の世界に生きている自覚はありなが...の画像はこちら >>
 大宮アルディージャでの3シーズンを通して「やれることはやりきった」という気持ちになれたこと。そのうえで"自分の生き方"も明確になったことが、2017年、川崎フロンターレへの移籍を決断した理由だったという。

 当時、30歳。シンプルに「より高い競争に身を置いてみたい」という気持ちに従った。

「オニさん(鬼木達監督/現鹿島アントラーズ)が監督に就任されることは聞いていましたけど、正直、僕は面識がなかったので。サッカースタイルがどうこうっていうよりは、個人的なチャレンジ、という感覚のほうが大きかった」

 そうして始まった川崎でのキャリアは、オファーを受けた時から「タイトルを獲るための力になってほしい」と明確に求められていたからだろう。移籍初年度の2017年に実現したクラブ史上初のリーグタイトルは、うれしい記憶として刻まれている。開幕前に右足第一末節骨を痛めて出遅れるなど、順風満帆のスタートとはいかなかったが、後半戦はほとんどの試合でレギュラーに定着。主軸のひとりとして年間で71得点を記録したチームの攻撃を彩った。

「開幕戦のケガを受けて、正直、つまずいたなって感じていました。クラブの狙いと僕の現実が違うことへの、周りのイライラもあっただろうし、自分に対するイライラもありました。

 ただ、これまでのキャリアもそうでしたけど、僕は最初からうまく順応するとか、期待に応えられるほど、器用じゃないので。......ってことは、その状況に立たされた時にもリマインドしていました。あとは"根性"ですね。

ひたすら、根性で乗りきりました」

 意外なワードを耳にして、思わず聞き返す。家長にとって"根性"とは何を指すのか。

「僕みたいな変わりもんは、プレーでも、結果としても、相当秀でないと認めてもらえないと思うんです。単に巧いとか、これができる、あれができる、といった曖昧な姿では、認めてもらえないし、受け入れてもらえない。それに、僕がフロンターレに適応するには"自分が表現したいプレー"で勝負するしかないと思ったからでもあります。

 でもそれって、そこに秀でたプレーや結果がないと単なるわがままでしかないわけで......。実際、だからオニさんも最初は僕を使わなかったんじゃないかな。その状況をどうにかするための、根性というか。人より死ぬ気で頑張って、監督やチームメイトに『もしかしたら、勝つためにはこいつが必要かもな』と思わせるだけのプレーを見せて、認めてもらうしかない。

 だから、やらなあかんことはやるし、自分に必要だと感じたことは全部やる。......って言うと、めちゃストイックに聞こえますけど、そんなことは全然ないです。性格的にそれは無理。

ただ『こいつが必要かもな』って思わせる秀でたプレーと結果は、今も自分に求め続けています」

 そうした自分との戦いにも向き合いながら手にした最終節での、逆転優勝。彼の"根性"がひとつの形として結実した瞬間でもあった。

「自分にとっては2005年以来のリーグタイトルでしたけど、ガンバ大阪時代のそれはチームメイトに恵まれて、自分はただ試合に出て、言われたことをやっていただけで、何かをしたという実感もないまま、気づいたら優勝していましたから。でも2017年は、少なからず力になれたという感覚はあったし、僕がフロンターレに求められた理由はタイトル手に入れるためだったと考えても、素直にうれしかったです」
 
 さらに言えば、2018年は32試合に出場し、6得点7アシストとシーズンを通して稼働したなかでリーグ連覇を実現し、キャリアでは初めてJリーグMVPを受賞したのも、いい思い出だと振り返る。

「チームの結果が一番なので、個人の結果はそこに付随するものでしかないですけど、うれしかったです」

 ただし、そこに続いた言葉はいかにも家長らしいものだった。

「うれしかったんですけど......結果は、僕にとっては今も、ああこういうもんなんやな、という体験のひとつでしかないというか。勝った瞬間、タイトルを手にした瞬間はもちろんうれしかったし、クラブやサポーターのみなさんにとっても大きな喜びであり、財産になったと思います。

 でも僕自身にとっては、その瞬間を通りすぎれば、体験として得られたという事実が残るだけで、それ以上でも以下でもないのかな、と。もちろん、自分のサッカーにとって、その"体験"はすごく大事にしていることなので、新しい体験はたくさんできたほうがいいに決まっています。けど、それがはたして、勝つことやタイトルを獲ることでしか得られないのかと言えば、そうではない。

 そういう意味では......勝負の世界に生きている自覚はありながらも、勝った、負けたに感情が大きく動かされることはあまりないです。実際、勝ったから、タイトルが獲れたからといって、サッカーが上手くなるわけでもないし、負けたからサッカーが下手になるわけでもない。

だからこそ、僕は結果以上にその奥にあるもの......自分がどういう体験をできたかのほうが興味あります」

 その考えがあるからだろう。今年で在籍9年目を数える川崎では、Jリーグ連覇を皮切りに、2020年、2021年には再びリーグ連覇を実現したり、天皇杯やルヴァンカップで繰り返し頂点に輝くなど、チームのど真ん中で数々のタイトルを手にしてきたが、それらを獲得した事実を、家長はさほど強烈な記憶として残していない。

 それは逆も然りで、たとえば今シーズンも、AFCチャンピオンリーグ・エリート2024/2025で決勝まで上り詰めながらアル・アハリに0-2で敗れ、川崎も、家長も、唯一手中にしていないアジアタイトルを逃したが、その瞬間に感じた悔しさはすでに過去のものとなり、そこでつかんだ"体験"だけが財産として、彼のなかで息づいている。

「いろんな風向きもよくて、いい勝ち方が続いて決勝まではいきましたけど、アル・アハリは個の質を含めて、ちゃんと強かったです。準決勝までの相手とはまったく違う強さを備えていた。なので、勝ちたかったですけど、甘くはないよな、そうだよな、っていうのが、正直な気持ちです。

 初めての決勝で、それをちゃんと感じられたのもよかったし、肌感としては10回対戦したら3回......は難しいけど、2回くらい勝てるかもな、って現実を知り、自分を知れたのもよかった。それに、この歳になれば......もはや、獲れていないタイトルがあるくらいのほうがいいとすら思っています。

 こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、プレーがうまくいかないとか、思うようにいかないことがあるほど、喜ばしい。最近は以前ほど体が動かないことも自覚していますけど、なんなら、それも喜ばしいです(笑)」

"未知の世界"が、彼にとっては新たな"伸びしろ"を見出す体験になっていくからだ。そしてそのマインドこそが39歳になった今も、家長がキャリアを続けられている理由かもしれない。

「もはや伸びしろがあるのかも疑わしいですけど、少なからず今も、自分がサッカーをしている意味みたいなものを探しているのは間違いないです。

それを残りのキャリアで見つけられるのか、あるいは、選手ではなくなった時に答えが出るのか......っていうとなんか、めちゃ格好よく聞こえる気がするけど、実際にやっていることは18~19歳頃も、39歳になった今も、ほとんど変わっていない。(自分が)驚くほど歳をとって、体が理想どおりに動かなくなってきて、(現役を)やめる寸前にあるってことは大きな変化かもしれないですけど。

 フロンターレだって9年も在籍しているので、僕のなかでは当然、特別なクラブのひとつになっていますけど、正直、加入した時と同じように、いまだに馴染んでいる感もない(笑)。それはフロンターレというクラブにとっても同じで、いまだに僕に異物感を感じているんちゃうかな。若い選手なんて特に『この人、何を考えているんやろ。敵か味方か、どっちやねん』くらいで見ていると思いますよ」

 では、この先は――。馴染んでないと言いながらも、9年もの時間を過ごし、フィールド最年長選手になった今、家長は川崎で何を描くのか。この先のキャリアに何を見据えるのか。

「正直、いわゆる、メラメラした野心みたいなものはないです。どんなプレーがしたいとか、どんな存在になりたいとかもない。好きなようにプレーして、好きなように生きて、好きなようにやめるのが理想......って、それが一番難しいと思うので、先行きは不安(笑)。ただ......あくまで僕の基準ですけど、自分が思うレベルでサッカーができなくなったら、その時はアッサリやめるんちゃうかな。

 あと、勝つことがすべてじゃないとか言っておきながらなんですけど、もう一回リーグ優勝はしたいかな。今のメンバーでタイトルを獲ったことがないから。勝つことがすべてじゃないというのは、勝ちたくないということではないし、優勝した瞬間のあのワチャワチャした感じは意外と、好んでいるので」

 若い頃からどこか達観した目を持ちながら、どんな時もサッカーにはまっすぐに、正直に。器用じゃないからこそ、時に悩み、自信を失いながらも"根性"で自分を奮い立たせ、正解がない世界だからこそ、答えを求めず、けれども、芯を持ってユラユラ、ユラユラと我が道をゆく。他を寄せつけない圧倒的な技術と才能は、そうして今も驚きを生み続けている。

(おわり)

家長昭博(いえなが・あきひろ)
1986年6月13日生まれ。京都府出身。ガンバ大阪のアカデミーで育ち、高校2年生の時にトップチームへ昇格。翌2004年、J1デビュー。以降、若き天才プレーヤーとして脚光を浴びるが、レギュラーに定着するまでには至らず、2008年から大分トリニータ、2010年からはセレッソ大阪へ期限付き移籍。そして2011年、マジョルカ(スペイン)へ完全移籍。その後、2012年に蔚山現代(韓国)、古巣のガンバに期限付き移籍。

2013年夏にマジョルカに復帰したあと、2014年に大宮アルディージャに完全移籍。2017年には川崎フロンターレへ完全移籍し、以降チームの主力として数々のタイトル奪取に貢献する。2018年にはJリーグのMVPを受賞。

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