Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第5回】洪明甫/ホン・ミョンボ
(ベルマーレ平塚、柏レイソル)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第5回は1990年代に「アジア最高のリベロ」と称された洪明甫(ホン・ミョンボ)だ。ベルマーレ平塚と柏レイソルでキャリアの円熟期を過ごした彼は、J1通算114試合出場という数字をはるかに上回るインパクトを残している。
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洪明甫がJリーグにやってきたのは1997年だった。7月2日のファーストステージ13節で、ベルマーレ平塚の背番号37を着けた韓国代表のスーパースターがピッチに立った。中盤には日本代表デビューを飾ったばかりの中田英寿がいて、インテリジェンス溢れる反町康治がいる。前線ではこの年の9月に日本への帰化が認められるワグネル・ロペス(現・呂比須ワグナー)が背番号10を着けていた。
「デビュー戦はものすごく緊張しました。最初の3カ月は、何をやってもうまくいかなかったです」
1990年のイタリアワールドカップで国際舞台デビューを飾った洪は、1994年のアメリカワールドカップでは2ゴールをマークした。国際舞台で活躍するたびに、オファーが届いた。ところが、1997年のベルマーレ入団までは韓国でプレーした。
「所属していた浦項は『看板選手が出ていくなんてありえない』という反応でした」
1990年代中期の韓国では、野球の宣銅烈(ソン・ドンヨル/1996年~1999年=中日ドラゴンズ)とサッカーの洪の去就が、シーズンオフの定番ネタだったという。
【カミソリ入りの手紙が届いたことも...】
そうしたなかで、1996年5月末に2002年のワールドカップが日本と韓国の共催に決まった。前年12月には宣の中日ドラゴンズ移籍が発表されていた。洪の海外移籍への道筋が、少しずつできあがっていった。
「韓国ではKリーグで優勝もしたし、MVPにもなりました。早く外国へ出て新しいスタートを切りたかったので、ベルマーレからのオファーはなんとしても受け入れてほしいとお願いしました。ここで行かなければ、もう一生、海外でプレーすることはないだろうと思ったのです」
ベルマーレがオファーを出すのは、これが2度目だった。一度目は1994年で、洪は「それからずっと自分を見てくれていた」と、ベルマーレの熱意に心を動かされたのだった。
Jリーグ行きが発表されると、批判的な意見も聞こえてきた。カミソリの入った手紙が届いたこともあった。家族は「本当に行っていいのか」と不安げな表情を浮かべ、日本行きを反対する友人もいた。
さまざまな葛藤を乗り越えて、洪はJリーグにたどり着いた。その一方で、彼は日本サッカーを、日本という国を、深く理解していなかった。
「日本でやりたかったというよりも、とにかく海外でサッカーがしたい、という気持ちが強かったですからね」と洪もうなずく。
加入初年度の1997年は、ボランチが主戦場だった。長短のパスを繰り出し、ミドルシュートも鋭いから、MFでもチームに貢献することはできる。ただ、本職のリベロではなかったことも、環境への適応に時間を要した一因だったかもしれない。
3バック中央を任された1998年は、シーズンを通じて稼働した。お馴染みの「20」を着けた彼は、圧倒的な存在感を放っていく。
1999年からは柏レイソルの一員となる。親会社の撤退でベルマーレは予算規模が大幅に縮小され、洪らの主力は他クラブへの移籍を余儀なくされたのだった。
【柏の将来性豊かな日本人を牽引】
レイソルでは不動のリベロとして、チームの中心となる。空中戦に強い渡辺毅、スピードのある薩川了洋と形成する3バックは、リーグ戦で年間3位に食い込み、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)を初制覇したチームの支えとなった。出場した試合はすべてフル出場し、天皇杯でのベスト4入りも後押しした。
2000年は主将に就任する。
「来日した当初は、ガツガツと激しくプレーしてきた自分からすると、日本のサッカーは激しくやらなければならない場面でそうしない。相手が強いと精神的に委縮してしまうところがある、と感じました。そういうところに、もどかしさを覚えたこともあります。
けれど、レイソルでは結果を残すことで、日本人選手たちが精神的にたくましくなっていきました。僕の言うことも、よく聞いてくれましたしね(笑)」
GK南雄太、MF明神智和、大野敏隆、FW北嶋秀朗らの将来性豊かな日本人選手を洪が牽引するレイソルは、シーズンを通して安定した戦いを見せた。ファーストステージを4位で終え、セカンドステージでは鹿島アントラーズと首位を争う。勝ち点1差で鹿島を追いかけ、最終節で激突する。
国立競技場で開催された鹿島のホームゲームには、5万人を超える観衆を集めた。勝てば優勝が決まるレイソルは、前半から猛攻を仕掛けた。しかし、延長戦を含めた120分間で得点を奪うことはできず──2000年はまだ同点の場合は延長戦があった──スコアレスドローに終わる。レイソルは勝ち点1差で優勝を逃した。
試合後には悔しさをあらわにした。「優勝と2位では大きな差がある」という感覚が、全身に染みわたっているからだった。
「我々よりも鹿島のほうが、勝負のかかった試合の経験が多かった。とても、とても悔しいけれど、我々はできることはすべてやりました。この経験は必ず貴重なものとなる」
【2026年W杯は韓国代表監督として】
シーズンを通して獲得した勝ち点は、年間王者の鹿島よりも、鹿島とチャンピオンシップを争った横浜F・マリノス(ファーストステージ優勝)よりも多かった。
チームは大きな期待を背負って2001年を迎えるが、洪はケガに悩まされた。疲労骨折でセカンドステージはほぼ出場できず、チームは年間順位で8位に終わった。
洪はJリーグでのキャリアに区切りをつける。
「自分は外国人選手としてプレーしているわけですから、チームを勝たせないといけない。レイソルを優勝させるという気持ちで戦ってきて、その目標は達成できなかったけれど、自分にできることはすべてやったという気持ちでした」
すでに30歳を過ぎていた。フットボーラーとしてのキャリアは、終盤に差しかかっている。翌2002年には、自身4度目となるワールドカップが控えている。
「国際試合で日本と対戦する時は、絶対に負けない気持ちで臨んでいました。それはJリーグでプレーしてからも変わることはなかったですが、日本の選手たちとお互いの理解を深めることができたのは、とても有意義なことでした。サッカーについても、多くのことを学びました」
日本で悩み、苦しみ、喜び、悔しさにもまみれた時間は、洪にとってどんな意味を持つのか──。
「かけがえのない時間でした」
いつだって勝者であろうとし、決してあきらめない心を持った韓国代表のスーパースターは、代表監督として2026年のワールドカップに挑もうとしている。