連載第62回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 8月10日に釜本邦茂さんが亡くなられました。

日本サッカー史上最高のストライカーについて、プレーを見続けてきた後藤氏がそのすごさを紹介します。

【ワールドクラスの総合的CF】

 8月10日の未明に釜本邦茂さんが亡くなった。かねて闘病中と伺ってはいたが、享年81歳とはあまりに早いお別れとなった。

釜本邦茂さん死去 日本サッカーが生んだ不世出のストライカーの...の画像はこちら >>
 メキシコ五輪での銅メダル獲得とか、国際Aマッチ75得点(76試合)。あるいは、日本サッカーリーグ(JSL)での通算202得点(251試合)といった記録については、すでに報道されているとおりである。

 1試合1ゴールに近いというのは信じられないような記録である。ちなみに、日本代表の得点数第2位は三浦知良(カズ)の55得点(89試合)、Jリーグの通算得点記録は大久保嘉人の191得点(477試合)である。

 しかし、釜本の全盛時を知る人間としては、彼の本当の凄さを語るにはこうした数字だけでは不十分であると言うしかない。

 センターフォワード(CF)にとって最も大事なのは、もちろん得点力である。

 だが、同時にワントップでターゲットとして味方からのボールを受けて収め、いわゆるタメを作って攻撃の組み立てをすることも重要だ。

 日本には、相手の守備ラインの裏に抜け出すタイプのFWが多い。たとえば、Jリーグ最多得点記録を持つ大久保や、大久保に記録を破られた佐藤寿人といった選手たちがそうだ。一方で、ターゲットとしての役割をこなせる選手は残念ながらそれほど多くはない。

 最近では、大迫勇也が最も優秀なターゲットマンだ。大迫はターゲットとして活躍し、同時に得点力も高い。

 ターゲットの役割をこなしながら、同時に数多くの得点を決める。それこそが、総合的CFなのだが、世界を見渡してもそういうタイプの選手はそれほど多くはない。それでも、アラン・シアラー(イングランド)がそうだったし、マルコ・ファン・バステン(オランダ)も総合的CFの第一人者だった。

 そして、釜本邦茂もまさにそうしたワールドクラスの総合的CFだったのである。

 身長は公称179cm。実際は180cm以上あったが、けっして大型とは言えない。だが、体幹の強さがあるから欧米の屈強なDFと対峙してもまったく引けを取らない強さがあった。

 だからこそ、相手DFを背負っていてもボールを失わないで味方につなぐことができたし、相手DFと競り合いながらでも強烈なシュートを打つことができたのだ。

 右45度からドリブルで持ち込んでの強烈なシュートは、釜本にとってのまさに見せ場だった。

 しかし、釜本は右足だけの選手ではなかった。

左足でもヘディングでも点が取れたのだ(釜本自身は「右足が5割。左足が3割。頭が2割」と語っていた)。

【工夫と努力で進化した天才】

 もっとも、釜本も最初からこうした万能型だったわけではない。

 全盛時代を知る者としては信じられないことだが、京都・山城高校時代は右足だけの選手だったし、それほどスピードもなかったのだという。

 その後、日本代表入りしてから右足だけでは勝負できないことを知った釜本は武器を増やしていく。

 ペンデルボール(ポールからロープでボールを吊るしたヘディングの練習用機材)を使ってヘディングを鍛え、左足でも正確なボールを蹴ることができるように左手で箸を使って食事をしたのだという。

 入団2年目の1968年1月に、ヤンマーディーゼルは釜本を西ドイツのザールブリュッケンに短期留学させた。そこでユップ・デアバル(のちに西ドイツ代表監督)の指導を受けてスピードを身につけた釜本はさらに得点能力をアップさせ、同年10月のメキシコ五輪で得点王に輝いた。

 また、ザールブリュッケンには1966年W杯イングランド大会で得点王となったエウゼビオ(ポルトガル)のフィルムがあり、釜本はそのフィルムが擦りきれるほど見続けて、エウゼビオのキックをマネたという。

 エウゼビオは実は生まれつき両足の長さが違っており、それを利用して強烈なインステップキックを蹴っていたのだが、普通の人にはマネすることが難しかった。そこで、釜本はボールよりかなり前に立ち足を踏み込み、蹴り足の膝を折りたたむような独特のフォームを自身のものとしたのだ。

 釜本は間違いなく天才である。

だが、自らに欠けている物を知り、それを補うために工夫をこらしたトレーニングに励み続けたからこそ、世界的な総合的CFとなることができたのだ。

 また、1964年の東京五輪の時にようやく20歳になる逸材を信じて、日本代表で起用し続けた長沼健監督や岡野俊一郎コーチの決断があったからこそ、釜本は東京五輪でプレーできたのだし、まだ国際交流が今ほど盛んでなかった時代にヤンマーは釜本を西ドイツに留学させた。

 つまり、日本のサッカー界全体がこの逸材を育てるために力を注いだのである。

【強豪クラブ相手のゴールの数々】

 国際Aマッチ75得点というゴールはたしかにすばらしい記録だが、当時は国際Aマッチの試合数は今ほど多くはなかった。しかも、欧州や南米の代表との試合などほとんどなく、ほとんどがアジアの代表との対戦だった。

 当時の日本代表にとっては、シーズンオフを利用して来日する欧州や南米の強豪クラブとの対戦がビッグイベントで、日本代表は、事前合宿を行なって対戦したものだった。

 僕たちの記憶に残っているのは、Aマッチでの得点よりもこうした強豪クラブとの試合でのゴールの数々だった。

 1967年にはブラジルのパルメイラスが、南米の本格的プロチームとして初めて来日。東京・駒沢陸上競技場で日本代表と3試合を戦ったが、2戦目では釜本が奮闘。74分にはヘディングの競り合いでPKを獲得(小城得達がゴール)、さらに80分にも角度のないところから体制を崩しながらシュートを決め、日本代表に2対1での勝利をもたらした。

 1968年にはイングランドのアーセナルが来日。その初戦で、アーセナルは開始13秒でいきなり先制ゴールを決めて観客を驚かせた。だが、8分には右サイドの渡辺正からのクロスを、ニアサイドに飛び出した釜本がダイビングヘッドで決めて一矢を報いた(この形のゴールは、その後日本では「アーセナル・ゴール」と呼ばれることになる)。

 僕が、もうひとつ覚えているのは1971年にトッテナム・ホットスパーが来日した時のことだ。神戸で行なわれた初戦で日本代表は0対6と大敗を喫したのだが、釜本が右サイドからのクロスをゴール正面から強烈なヘディングシュートを放つ場面もあった。誰もが「決まった!」と思ったが、トッテナムの名GKパット・ジェニングス(北アイルランド代表)が横っ飛びにはじき出してしまったのだ。

 こうした親善試合も含めると、日本代表での釜本の得点は154ゴールに達する。

【その能力は世界に知られていた】

 メキシコ五輪後には欧州クラブからオファーも届いていたのだが、残念ながら釜本がウイルス性肝炎に罹って戦列を離れてしまったこともあって海外移籍は実現しなかった。当時の釜本の能力をもってすれば、どこの国のどんなクラブに行ってもCFとして定着し、多くのゴールを決めていたはずだ。

 しかし、日本という弱小国でプレーしていてもその能力は世界に知られていた。1980年12月には、バルセロナで行なわれたユニセフの慈善試合に世界選抜の一員として参加。ヨハン・クライフ(オランダ)やミシェル・プラティニ(フランス)とともに堂々たるプレーを見せた。

釜本邦茂さん死去 日本サッカーが生んだ不世出のストライカーのすごさ
1984年に行なわれた引退試合のチケット(画像は後藤氏提供)
 そして、1984年8月に東京・国立競技場に6万人の大観衆を集めて行なわれた釜本の引退試合には、ペレ(ブラジル)やヴォルフガング・オベラート(西ドイツ)が駆けつけたのである。

 釜本氏の日本サッカー界への多大なる貢献に感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。

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