学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは今も昔も変わらない。

この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、いまに生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」

バレーボール】柳田将洋インタビュー前編(全2回)

高校時代にバレーボール部で「自主性」を学んだ柳田将洋「一度も...の画像はこちら >>
 現在、東京グレートベアーズでプレーする柳田将洋は東洋高校(東京)時代、全日本バレーボール高等学校選手権大会(通称・春高バレー)で優勝した経験を持つ。「環境が一変した」という春高フィーバーと、それによって変わった進路。大学の学部と就職先について考えていた当時の柳田にとっては大きな転機となった。

 2018年から2020年までは日本代表でキャプテンを務め、現在は現役選手ながら公益財団法人日本バレーボール協会JVAの理事とアスリート委員会委員長、国際バレーボール連盟アスリート委員を務めている。頭脳明晰で広い視野を持ち、選手間でも一目を置かれる存在である柳田は、どのような高校時代を過ごしたのか。柳田にとっての『部活動』について聞いた。

【自主性が芽生えた高校時代】

――まず東洋高校に入ったきっかけは何だったのでしょうか?

柳田将洋(以下、柳田) 東洋高校には僕が中学1年生の時、3年生だったバレーボール部の先輩が進学して、その先輩との縁もあって東洋の練習を見学に行ったんです。その時に「すごく楽しそうにバレーボールをしているな」と思って決めました。その先輩は中学まではセッターだったのですが、高校ではスパイカーに転向していて......。セッターからスパイカーというのはバレーボールではあまり考えられない転向なのですが、先輩がとても上達していたのと、何よりすごく楽しそうにプレーしていたので、自分もこういう環境でプレーしてみたいと思ったのがきっかけです。

 東洋高校は強豪校でしたが、当時は春高バレーなんて僕にとっては雲の上の存在。出場できるかどうかもまったくわからない状況でした。

それでも別にいいし、楽しくバレーができればいいかなぁぐらいの気持ちで東洋に進学を決めました。

――実際に入ってみて、どんなチームでしたか?

柳田 練習は厳しくなかったです。朝練はありましたけど、毎日ではなくて、普段は授業を4時限目とか5時限目まで受けて、午後6時半か7時くらいまで部活をして帰る毎日でした。あまり長く練習する高校ではなかったのですが、短い時は1時間くらいで終わる日もありましたね。特に大会の前は本当に短くて、集中して練習し、翌日に備えるというのが監督の方針でした。ケガのリスクもありますし、監督的にはケガをして大会に臨みたくないという思いもあると当時おっしゃっていました。

――東洋高校の北畠勝雄監督から影響を受けたことはありますか?

柳田 直接言われたことはないのですが、「自主性」は高校生の時に芽生えたと思っています。自分で考えてプレーすることの大切さを知って、それが当たり前になったのが高校時代です。「こういうプレーをしたい」「こういうバレーボールをしたい」といった目標を掲げて、それを実現するためにはどんな練習が必要か。自分たちで練習方法を考えたり、試合で試したりしていました。監督が「ああしろ、こうしろ」と強制しないので、勝つためにすべきことを当時、セッターだった関田誠大(サントリーサンバーズ大阪)などと一緒に話しながら練習していたのを覚えています。

――いわゆる「しごき」のような厳しい練習は経験しなかったのでしょうか?

柳田 まったくないですね。

当時から僕は高校生なりに非効率、効率のことを考えて練習していました。たとえば練習量が多くて有名な学校の話を耳にすることはありましたし、大会期間には試合会場で他校の練習を目にする機会もありましたが、ワンマン(レシーブ練習)をやっている姿を見て「何の意味があるんだろう」と思っていたり......。「だったら休んで試合をしっかりやった方が効率いいよね」と冷めた目で見ていました。

――冷静だったのですね。では、東洋高でいちばん厳しかった練習は?

柳田 合宿での練習試合は体力的に厳しかったですね。午前中4セット、午後には5セットを行なうとか。でも、おそらく他の強豪校からすれば当たり前で、僕らはその「きつい」と感じるハードルが低すぎて(笑)、文句を言いながらやっていました。「この練習も、しっかり目的を持ってやらないと意味ないよな」とか「今、なあなあでプレーしているよな」とか......。練習試合に飽きて、モチベーションが落ちてしまうことも多々ありました。

――選手の自主性を育てようと監督が仕向けていた可能性も?

柳田 それはあるかもしれないですね。「自分で考えてプレーする」を習慣にするためには、おそらく監督からすればたくさん我慢が必要だったのではないかと今は思います。いろいろと言いたかったことがあるでしょうし、そこを我慢してくださっていた。

監督には自分なりに考えて練習するきっかけを作っていただいたと思っています。

 正直、一度も叱られた記憶がないんです。試合中にまったくスパイクが決まらなくて監督に呼ばれたことがありました。「さすがにこれは叱られるだろうな」と覚悟を決めて行くと「朝飯、食ったか?」と(笑)。「食べました」と答えたところ「そうか、頑張れ」と。それくらい何も言わない監督でした。

【バレーボールが仕事になる概念がなかった】

――柳田選手はバレーボールをやめたいと思ったことはありますか?

柳田 バレーボール自体をやめたいと思ったことはありません。ただ、バレーボール中心の生活をやめようと思ったことはあります。高校時代、進路を決める時に、一般入試で大学を受けて、卒業後に就職しようと考えていた時期がありました。2年の進路相談の時も、勉強したい学部のある大学を候補に挙げて、その先にはどんな就職先があるのか調べたりしていました。

 春高バレーで活躍したあとは、自分が受験しようと思っていた大学よりさらに行きたいと思える大学から声がかかったので、一般入試より「バレーを頑張って大学に行こう」と考え方が変わりました(笑)。

――当時は将来、バレーボールを職業にする選択肢はなかったのでしょうか?

柳田 はい。

まず春高バレーで優勝する前は、僕は注目されていなかったんです。オリンピック(の強化)指定選手になるとか、いわゆる能力の高い選手が当然、通ってきたような道を経験していません。高校1年生の時に春高でベスト8入りし、初めて選抜チームに選ばれたのですが(※高校のオールスター戦)、そこで様々な県外の選手と会って変わりました。

 都城工業高校の長友(優磨/フラーゴラッド鹿児島)などの有名選手と一緒に練習して、話をする機会があって、世界が広がりました。そのままユース代表にも選ばれたのですが、それでも「将来はバレーボールを仕事にしよう」とは思いませんでした。自分がVリーガーになるというイメージは描けませんでしたね。

 今と違って日本代表の試合はこんなにテレビで見られなかったですし、Vリーグも有料チャンネルと契約しないと見られない。一度、東洋高校バレー部が東レアローズ(現・東レアローズ静岡)さんにご招待いただいて東京体育館の3階席から試合を見たくらいです。大学を卒業した先のカテゴリーをイメージする機会がありませんでした。そもそも当時はプロスポーツではなかったですしね。

 だからバレーボールが仕事になるという概念がありませんでした。結果的に大学卒業後はサントリーサンバーズに入団したのですが、社員として雇用してもらいながらバレーボールができるというのも、入団のお話があった時に初めて知ったくらいです。

つづく

後編>>部活動の何気ない日常「間違いなくあれば青春の一部でした」

Profile
柳田将洋(やなぎだ・まさひろ)/1992年7月6日生まれ。東京都出身。186㎝。アウトサイドヒッター。2023年から東京グレートベアーズ所属。東洋高校では、春高バレーに1年生で出場してベスト8。2年時に優勝を飾り、3年時もベスト4と成績を残した。慶應義塾大に進学後、全日本メンバーには大学3年で初登録された。2015-16シーズンにはVプレミアリーグで全試合に出場し、最優秀新人賞を受賞。2017年のプロ転向後、ドイツ、ポーランドと海外でもプレー。日本代表としては、2018年からキャプテンを務めるなど、中心的存在として牽引。直近では2023年の杭州アジア大会代表で、銅メダル獲得に貢献した。

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