連載第66回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回はサッカー日本代表のメキシコ戦をきっかけに、来年もW杯の舞台となるメキシコでの過去のW杯、とくに後藤氏が現地観戦した過去13大会で「最も面白かった」という1986年大会の取材の思い出を紹介します。
【日本はメキシコ戦をコントロールしたが...】
日本代表は9月6日(日本時間7日)の強化試合でメキシコと対戦した。
会場のカリフォルニア州オークランドはメキシコの準ホーム。4万人を超すメキシコサポーターが集まったが、日本は前線からの組織的守備でメキシコのパス回しを封じ込めることに成功。そのため最終ラインにも余裕が生まれ、負傷者続出で不安視されていた最終ラインも相手FWに競り勝ち、メキシコに決定機をほとんど作らせなかった。そして、今や絶対的守護神に成長したGKの鈴木彩艶も相手の決定的シュートを余裕を持ってセーブ。90分間にわたって試合を完全にコントロールした。
しかし、攻撃面ではエネルギー不足。前半の立ち上がりに何度かあった決定機を逃がすと次第に攻撃が淡泊になってスコアレスドロー。久保建英も三笘薫も献身的守備で貢献したが、守備にエネルギーを削がれて攻撃にパワーを使えなかった。もったいないことだ。
要するに、アジア予選で機能した3バック(+攻撃的ウイングバック)は機能しなかったのだ。
そもそも、アジア予選では攻撃力が爆発した印象だが、グループ内の強豪だったオーストラリア相手には2試合でオウンゴールの1点しか奪えず、1分1敗に終わっているのだ。サウジアラビアとのホーム戦もスコアレスドローだった。
W杯でも、日本は今や警戒される存在。欧州勢だって日本相手に守備を固めてくる可能性がある。1点を先行されて守られて点を取れなかったら、勝ち上がることは不可能だ。
今後の強化試合では、2列目の攻撃力を生かす新しい戦い方を確立しなければならない。
【スーパースターが揃った1986年メキシコW杯】
ハビエル・アギーレ監督のメキシコ代表も、日本に主導権を握られながら最後まで戦い方を変えることができなかったのだから、課題山積だ。
彼らのスローガンは「Somos Locales(俺たちはホームだ)」。自国開催(共同開催)のW杯での上位進出が彼らの目標のはずだ。なにしろ、過去2度の自国開催のW杯で、メキシコはいずれも準々決勝進出を果たしているのだから。
メキシコは1970年に続いて1986年にもW杯を開催し、W杯を複数回開催した最初の国となった(2026年には共同開催ながら史上初の3度目開催となる)。
1986年大会はコロンビアが治安の悪化で返上。代替開催国としてアメリカも手を挙げたのだが、FIFAは「米国は広すぎる」という今から考えると不思議な理由でアメリカ開催を否定。代わりにメキシコが選ばれた(裏にはFIFA内の権力争いがあったのだが、その話は長くなるので今回は割愛)。
いずれにせよ、メキシコで開催された1986年大会はとても面白い大会となった。
なにしろ、スーパースターが揃っていたのだ。
優勝したのはディエゴ・マラドーナのアルゼンチン。監督のカルロス・ビラルドと言えば、守備的な「アンチ・フットボール」の信奉者として知られていたが、マラドーナの存在によってネガティブな印象は完全に消し去られた。

フランスにはミシェル・プラティニがいてドミニク・ロシュトーやジャン・ティガナ、アラン・ジレスといった名手が脇を固めた。準々決勝でそのフランスと「サッカー史上最も面白い試合」を繰り広げたジーコのブラジルにもソクラテス、ファルカン、カレカなどがいた。
このフランス対ブラジル戦は、本当に僕がこれまでに見てきた約7600試合のうちで最も面白い試合だった。試合のリズムが次々と変わり、延長まで120分がアッという間に終わってしまい、試合中のPKやPK戦でもさまざまなドラマがあった。
グループリーグではミカエル・ラウドルップやプレベン・エルケーア・ラルセンのデンマークがスコットランド、ウルグアイ、西ドイツに3連勝して旋風を巻き起こしたが、ラウンド16ではスペインがそのデンマークを5対1で粉砕。スペインをけん引したのは「キンタ・デル・ブイトレ」時代のレアル・マドリードを引っ張ったエミリオ・ブトラゲーニョだった。
さらに地元メキシコには英雄ウーゴ・サンチェスがいて、ルチャリブレのように外連味のあるプレーを見せてくれたし、グループリーグ3戦目で蘇ったイングランドにはガリー・リネカーやクリス・ワドルなどがいた。
つまり、各国のサッカー史に名を残すような名手が顔を揃えたのがメキシコ大会だったのだ。準優勝の西ドイツは、最大のスターが決勝でマラドーナをマークしたローター・マテウスでかなり地味なチームだったが......。
【1970年メキシコW杯】
1986年大会に匹敵する(あるいは、それを上回る)W杯があったとすれば、それは1970年のやはりメキシコで開かれた大会しかない。
ペレが3度目の優勝を遂げた大会で、ブラジルにはリベリーノやトスタン、ジャイルジーニョといったビッグネームが名を連ね、南米予選から本大会の決勝までひとつの引き分けもなく12戦全勝で優勝を遂げた。
ブラジル以外でも、準優勝のイタリアにはジャンニ・リヴェラやサンドロ・マッツォーラ、ルイジ・リーヴァ、西ドイツにはフランツ・ベッケンバウアーやウーヴェ・ゼーラーがいたし、まだボビー・チャールトンが健在だったイングランドのゴールを守っていたのはゴードン・バンクスだった。
僕は本当は1970年のW杯も「行ってみたい」と思っていたのだが、1970年当時、高校生がサッカーを見にメキシコまで行くのは破天荒なことだったので断念した。今から思うと、まさに「一生の後悔」だ。
2度のメキシコ大会が面白くなったのは、高地(首都メキシコシティは海抜2240メートル)だったうえに欧州時間に合わせて試合開始が現地の昼間に設定されたために気温が高く、そのため欧州選手がフィジカルの強さを発揮できず、そのぶんテクニカルなサッカーが主体になったからだという、もっともらしい説明もされる。
だが、それだけではない。あれだけのスーパースターが揃っていれば、どこでやったって試合は面白くなるだろう。
ともかく、メキシコではW杯史上最高の大会が2度も開かれたのだ。だから、僕はメキシコは「サッカーの神に魅入られた国」なのだと思っている。
ちなみに、メキシコは1968年の五輪で日本代表が銅メダルを取った思い出の場所だ。当時は日本にとってW杯など夢のまた夢だったが、釜本邦茂というワールドクラスのセンターフォワードがいたので、ファンはメキシコ五輪直後の1970年W杯出場を夢見たものだ(アジア予選を前に釜本がウイルス性肝炎で倒れて夢は潰えてしまった)。
また、1986年大会のアジア予選は東西分離で行なわれ、日本は東地区最終予選に進出。最後は韓国に完敗したものの、一瞬ではあったがW杯への扉が近づいた大会だった。
そんな、日本人にとっても親しいメキシコだが、僕は1986年W杯以来一度も行っていない。そこで、来年のW杯ではぜひメキシコにも滞在したいと思っている。また、前の2回と同じような面白い試合が見られそうな気がするからだ。いや、メキシコという国はすべてが混沌としており、他のどこの国とも違う面白さがあるので旅行先としても最高だ。
実を言うと、ホテル代など滞在費がアメリカよりずっと安そうだからという現実的な理由もあるのだが......。
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