為末大インタビュー前編(全2回)

世界陸上で日本記録を出した為末大が振り返る銅メダル「当時のピ...の画像はこちら >>
 世界陸上は初開催の1983年ヘルシンキ大会以来、今回で20回目を迎え、東京開催は2度目となる。日本勢の初メダルは1991年の第3回東京大会の男子マラソン・谷口浩美の金と女子マラソン山下佐知子の銀だった。
そして2001年エドモントン大会で男子トラック種目初の銅メダルを獲得後、2005年ヘルシンキ大会でも銅メダルを獲得と、日本陸上界の歴史を切り拓いたのが400mハードルの為末大さん。

「文学少年が体育会の世界にずっといたという感じだと思います。比較的繊細でいろんな物事を分析したり、人の心理などに興味がある人間が、自分の体を使いながら『どうやったら速くなるのか』と検証しつつ、周りで起きる出来事を見ながら『何で人間にはこういうところがあるんだろう』など、いろいろ考えながらやっていました。だから選手の視点よりコーチっていうか、なんか観察者の視点がちょっと強かった気がします」

 現役時代の自分のこう振り返る為末さんに、まずは4回出場した世界陸上のうち、初メダルとなった2001年のエドモントン大会を振り返ってもらった。

【順調だった銅メダルまでの道】

――為末さんは4回世界陸上に出場されていますが、どんな印象を持っていましたか?

為末大(以下、為末) 日本だと五輪のほうがインパクトがありますけど、僕は五輪と世界陸上は並列で考え、どちらも世界大会という感覚でした。世界陸上が2年に1回あるなかに、4年に1回五輪が入ってくるという意識で、どちらかでいつかは金メダルを獲れたらいいなと思っていました。

――シドニー五輪予選敗退の翌年、2001年の世界陸上エドモントン大会で銅メダルを獲得しました。大会に向けては五輪と違う意識はありましたか?

為末 エドモントン大会で優勝したフェリックス・サンチェス(ドミニカ)もシドニー五輪は準決勝敗退だったんですが、彼と僕は2001年から急に速くなったんですよね。2001年7月のザグレブ国際大会で僕はサンチェスに勝ったんです。僕に負けて以降、彼は約4年間無敗という強さを誇りました。彼の快進撃が始まる第1弾がエドモントン大会でした。

――2001年からは積極的に海外遠征に出ていましたよね。目前に迫る世界陸上のメダルは見えていましたか?

為末 2001年はヨーロッパのグランプリ大会を回っていたら、1位や3位に入り始めて、世界ランキングも5位、4位あたりになり「もしかしてこれは、あるんじゃないか?」と、期待というかザワザワした気持ちになりました。

 世界陸上の1カ月ほど前に海外遠征から日本に帰ってきて、富士吉田で行なわれた合宿に参加した時、最初は体が疲れていたのですが、徐々に回復してくるとすごく速く走れて、30mダッシュもスプリント勢と同じような感じだったんです。「なんだこれ。メダルが獲れるんじゃないか」みたいな感じでした。

 冗談交じりではありましたが周りからも、「数%の可能性はあるんじゃない?」と言われていましたね。

――そんな万全な状態でむかえた初めての世界陸上エドモントン大会で、本当に銅メダルを獲得しました。

為末 決勝をうまく走れたのは、2日前の準決勝が大きかったんです。サンチェスに0秒03遅れの48秒10(日本新)だったんですが、最後は少し流した余力のある走りでした。全体では2番目の通過で、そこで明確に「メダルを獲りにいこう」という気持ちになりました。元々よかった調子が、現地に入ってさらによくなった感じでしたね。

――ピーキングはどう合わせたんですか?

為末 当時のピーキングは「ドン」と大会に当てて一発を狙う感じでした。1週間前の合宿でたくさん走り込んで、わざと疲労を溜めて、復活してきたところを当てるみたいなちょっと激しいやり方だったんですよね。それがハマったのが2001年で、たぶん陸上人生であそこが一番うまくいったのではないかと思います。

 今はもう少しマイルドなピーキングをしていて、常にいい状態を保っている選手が多い気がします。

――当時、世界で歴代20人強しかいなかった47秒台(47秒89)に入ったのは驚きました。

 面白い時代でしたよね。あの時の決勝は、アメリカ勢がいなくて決勝を走った8人全員の国が違っていたんです。今もあの時の決勝メンバーだけが入っているメッセンジャーのグループがあって、そこでおじさん達が会話をしています(笑)。

 今はアメリカに住んでいるロシア代表だったボリス・ゴーバンから、「今度、息子が日本に行くから面倒を見てくれないか」という連絡があったり......。そういう他愛もない話ができる関係です。今考えても、世界で3番になったこのレースが、人生のなかでは大きかったです。

【メダル獲得以降の苦悩】

――あのメダル獲得から、環境もかなり変わりましたね。

為末 いろいろありました。今47歳なんですが、このくらいの歳になると人生にもいろんなルートがあるのが見えてきます。僕は広島生まれで、当時はインターネットもないから「こういうものだろう」と思って歩んできた道をあらためて見ると、広島から「陸上がすべて」と思って出てくるパターンもあれば、早い段階から「陸上以外」を選ぶ人生もあったり。

 選手としてやっていくためにマネジメント事務所を選ぶ時も、当時は目の前にある1個を選ぶ感じでした。陸上界自体、マネジメントをみんながよくわかっていない時代だったから、靄(もや)のなかを手探りで選んでいった印象です。そういう選択が始まったのが、2001年以降です。

――そこからは少し苦労しましたよね。2003年世界選手権も準決勝敗退でした。

為末 2001年以降は、モチベーションの維持が大変でした。ケガも少しあったんですが、燃え尽き症候群のほうが大きかったです。

――何かを変えなければとアメリカに行き、筋肉をつけたり試行錯誤していた時期もありましたね。

為末 あがいていました。父親が亡くなったのが、2003年の世界陸上パリ大会が始まる1週間ぐらい前で、バタバタしているなかで大会を迎えました。2002年と2003年はうまくいかなくて、2004年にプロ転向をしました。その年のアテネ五輪はダメだったけど、なんとなく「こうやったらいけるかな」というのをつかんで2005年の世界陸上ヘルシンキ大会では、銅メダルを獲得できたんですよね。

――2003年シーズンが終わったあと、「余分な筋肉を1回落として、走るための必要なだけの筋肉にする」と話していました。それはアテネ五輪に間に合わなかったのですか?

為末 そうですね。必要だった股関節あたりの筋肉がついたことで出力もすごくよくなっていたのですが、五輪には間に合いませんでした。五輪後の9月のグランプリファイナルで6位になったり、ようやく馴染んできて2005年を迎えられたという感じです。

――でも、体が変わるとハードルの走りや跳ぶ技術も変化があると思うのですが、そこを探るのも大変でしたか?

為末 それはそんなになかったんです。自分で言うのもあれですが、僕はハードルがうまかったんですよね(笑)。走りや体づくりではずいぶん悩んだけれど、ハードル技術で悩んだことなかったです。

 ハードルの間は35mとけっこう長めでそこを走る時に風などの影響で歩幅が微妙に狂い、いつも踏みきるところに足を置くのが普通は難しくなる。ハードル間で微調整するところに技術の肝があるけど、それが他の人よりうまかったんです。

つづく>>

Profile
為末大(ためすえ・だい)
1978年5月3日生まれ。広島県出身。中学生のころから陸上で頭角を現し、高校では400mハードルで日本高校新記録と日本ジュニア新記録をマーク。

大学4年時にシドニー五輪日本代表に選出され、以降五輪には3度出場した。世界陸上にも4度出場し、そのうち2回銅メダルを獲得。2003年にはプロに転向し、2012年に引退。現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求している。

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