大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~大野元熙(前編)
スレンダーなシルエットと柔らかな雰囲気は、ビジネスマンで賑わう街中の午後の風景によく馴染んでいた。名刺には「株式会社ShinPaku 代表取締役/CEO」とある。
大野元熙(げんき)は、大阪桐蔭が甲子園春夏連覇を達成した2012年の、当時の3年生メンバー25人のなかのひとりだ。3年間公式戦のベンチに入ることすらできなかった口惜しさが、厳しい競争社会を生き抜く力になっていると語った。
「今でも夢を見るんです。メンバー発表の日、ホワイトボードに自分の名前がない夢です」
2年秋、3年春、3年夏と、メンバー発表の日が来るたびに敗北感に打ちひしがれた。
「いつか絶対にこのメンバーを逆転する」
今も付き合いが続く同級生たちの存在を常に胸に刻みながら、壮大な夢を追い求めて走り続けている。
【順風満帆だった青写真が崩れた日】
大野の野球人生は、大阪桐蔭野球部の選手たちの多くがそうであるように、少年野球の世界での華やかな活躍とともに幕を開けた。
奈良県にある強豪・香芝ボーイズ(小学部)で強打の遊撃手として頭角を現し始めていた小学5年の夏、大阪桐蔭が甲子園に出場した。当時ドラフト1位候補だった辻内崇伸(元巨人)、平田良介(元中日)に、スーパー1年生として話題をさらっていた中田翔(元日本ハムほか)など、スケール感あふれる選手たちの姿に、野球少年の心は一瞬でつかまれた。
「オレもここでレギュラーになって甲子園や!」
中学に進学すると、香芝ボーイズの中等部ではなく郡山シニアに入部。その理由は、大阪桐蔭へコンスタントに選手を送り出してきた実績を知っていたからだった。
大野が中学2年の時、大阪桐蔭は浅村栄斗(楽天)が攻守でチームを牽引し、全国制覇を達成。大阪桐蔭への憧れはますます強くなった。
4番・遊撃手を務めた中学3年時、大阪桐蔭から声がかかり、ついに道はつながった。
「郡山シニアの先輩から『おまえなら勝負できる』って言われて、その気になっていたんですけど、甘かったですね」
青写真どおりに進んだのは、ここまでだった。
歴代の多くの1年生がそうであったように、抱いていた淡い自信は初日の練習で打ち砕かれた。
「もちろん先輩たちもすごかったですけど、一番衝撃だったのは(同級生の)水本(弦)と安井(洸貴)のティー打撃でした。僕とは音がまったく違っていて。チームにある1キロくらいの練習用の木製バットを使っているのに、ふたりのティーは『バッチーン!』って強烈な音がするんです。こういうヤツらと競っていくんやと思ったら、『とんでもないところに来たな』と思いました」
それでも、「オレもやれば......」と可能性を信じて練習を積んだが、時間が経つにつれ、現実が見えてきた。ここから逃げ出したいという気持ちと、あきらめきれない思いが交錯する日々が続いた。
「自分がレギュラーとしてバリバリやる姿を思い描いて入ってきたけど、現実は違った。もっと上に行きたいのに行けない。いくら練習しても力が足りない。正直、ずっと辞めたい気持ちがありました」
【堅実な守備職人へ生き残りを懸けた選択】
中学時代は打撃が売りだったが、次第に堅実な守備を武器とするようになっていった。
「大阪桐蔭はやっぱり打たないと......。でも、自分が勝負できるのは、そこ(守備)しかなかったんです。
2年秋、新チームとなって迎えた練習試合。メンバーを記入する用紙に、いったん「6・大野」と書かれたあと、×で消され、「6・妻鹿」と書き直されていたことがあったという。その用紙を見た小池裕也から話を聞き、大野の胸は大きく揺れた。
一度は、監督である西谷浩一が自分の名前を書いた──そこまでの位置には来ている。指揮官の思いを想像しては、一喜一憂する日々が続いた。しかし、最後にメンバーから漏れた。
仲間たちの戦いをスタンドから見守った秋、チームは大阪大会を制し、近畿大会ではベスト4へと進出した。そして翌春、2年ぶりの出場となった選抜大会で、大阪桐蔭は春の甲子園初制覇を果たす。
この春の記憶について尋ねると、大野は初戦で対戦した花巻東(岩手)を前にした練習の光景をあげた。
「対戦が決まると、相手打線に小柄な左バッターがいたので、僕がヘルメットを被り、キャッチャー防具を着け、藤浪(晋太郎)が投げるブルペンで左打席に立ったんです。
それでも最後まで希望を捨てることなく練習に取り組んだが、夏もベンチ入りは叶わず。そんななか、大阪大会直前、悔しさを噛み締めながら仲間たちに送った言葉は、紛れもなく本心だった。
「負けるなら予選の1回戦で負けてくれ。勝つならとことん、最後までいってくれ」
【アルプスの映像はコンプレックス】
普段から、誰がメンバーで誰がメンバー外なのかわからないほど仲のいい学年だった。春夏連覇という結果に対しては、大野は「素直にうれしかった」と笑顔を見せた。ただ、甲子園の大会期間中、宿舎で試合映像を目にするたび、心が大きく揺れたことはよく覚えている。
「アルプスで応援している姿が映るのが、たまらなく嫌やったんです。地元の友人には『レギュラーで甲子園に出るから』って格好をつけて出てきたのに、結局一度もベンチに入れず、スタンドで応援している自分が映る......。アルプスの映像は、今もめちゃくちゃコンプレックスがあります」
それでも最後は、仲間のためにバッティング投手を務め、チームのためにできることを行動で示した。当時を振り返りながら、大野は西谷への感謝をあらためて口にする。
「特にメンバー外って、監督を恨んだりしがちだと思うんですけど、あの頃も今も、そういう感情はいっさいないです。
当時の僕は、とにかく自分、自分で、人のために何かをするという精神が完全に欠けていました。でも、そういう部分を卒業するまで、しつこく言ってもらった。その積み重ねがあったから、最後の夏は『こいつらのために』と思って、バッティングピッチャーとして投げることができた。感謝しかないです」
大野にとって高校野球の終わりは、イコール野球人生の終わりでもあった。大学で野球を続けるだけの力は十分にあったし、西谷からはいくつかの大学を勧められた。しかし、続ける選択はなかった。
「最後までメンバー入りをあきらめたわけではありませんし、できる限りの努力はしました。そのなかで、日本一の集団が放つ空気を肌で感じることもできたし、やりきったという思いがあったんです」
大学へ進み、それなりのチームでレギュラーとしてプレーできたとしても、この2年半余りの濃密な時間を超える経験ができるとは思えなかった。野球から離れ、大野の人生は激しく流転していく。結局、大学は1年で退学した。
「大学に行ってみて、ここは優秀なサラリーマンになるところだと思ってしまったんです。もともと、うちは親父が運送会社をやっていて、祖父も運送や建築業、母方もクリーニング店を経営していました。いわゆるサラリーマン家系ではなかったんです。それが大学では、『卒業したら〇〇に就職して......』という話ばかりで、自分がいるのはここじゃないなと思ったんです」
具体的なビジョンがあったわけではない。ただこの時点でも、まだぼんやりと頭の片隅に残っていた"ある思い"を胸に、大野はキャンパスを離れたのだった。
(文中敬称略)
つづく>>










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