渡辺俊介インタビュー(前編)

 記念すべき第1回ワールド・ベースボール・クラシックWBC)に日本代表として出場した渡辺俊介氏。アメリカ戦での「世紀の誤審」、韓国戦での福留孝介の代打劇的弾、キューバとの決勝戦──。

渡辺氏が体験した世界一までの緊張と興奮の舞台裏を赤裸々に語る。

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王貞治監督から直々の先発指名】

── 渡辺さんは、日本がプロ・アマ合同で出場した2000年のシドニー五輪に、当時社会人の投手ながら出場し、イタリア戦、キューバ戦で登板されています。

渡辺 初のプロ・アマ合同チームで、パ・リーグの主力選手が参加していました。松坂大輔(当時・西武)、ジョニーさん(黒木知宏/当時・ロッテ)、中村紀洋さん(当時・近鉄)、松中信彦さん(当時・ダイエー)を筆頭に、一流選手が参加し、一緒にやれることがとにかくうれしかったですね。

── キューバは、のちに社会人野球のシダックスに入るオレステス・キンデランやアントニオ・パチェコ、また中日入りしたオマール・リナレスが中心打者で、この大会で銀メダルを獲得しました。

渡辺 金属バットから木製バットに変わったこともあり、日本は五輪にプロ選手を送り込んだと思うのですが、当時のキューバは"最強"と称される存在で、私はキンデランに3ランを浴びて敗戦投手になりました。木製バットへの対応力の高さを痛感させられましたね。

── とはいえ、五輪での活躍もあって、その年の秋のドラフトでロッテから4位指名され入団。プロ6年目の2006年のWBCに選出されました。

渡辺 2005年、ソフトバンクと優勝争いをしていた時のことです。千葉マリンスタジアムのロッテのダグアウトに王貞治監督が歩いてきました。まさか自分のところに来るとは思っていなかったのですが、私の目の前で立ち止まり、こう言われました。「アンダースローは日本固有の投げ方だと思っている。

WBCは日本らしい野球で勝ちたい。だから、君を先発の中心として考えているよ」と。

── 渡辺さんはプロ3年目の2003年に9勝、04年に12勝、05年に15勝の成績を残されました。

渡辺 選手選考が始まった、まだ最初の段階で、しかも王監督からそんなことを言ってもらえて、体温が一気に上がったような感覚でした。しかも、『先発は上原浩治(当時・巨人)と松坂大輔(当時・西武)、渡辺くんの3人で考えている』と言われて......。『そのなかにオレが入っているのか。すげぇな』って(笑)。僕はホークス戦の相性がよく、王監督に好印象を与えたのかもしれないですね。

── 当時「地上3センチ、世界一低いアンダースロー」と称されていました。

渡辺 ただ2004年の日米野球では、デビッド・オルティーズ(当時・レッドソックス)とカール・クロフォード(当時・レイズ)のふたりに、初見でいきなりホームランを打たれました。当初は通用するだろうと思っていたのですが、一流打者は何球か見ただけですぐに対応してくる。投球フォームで惑わすことはできないし、投げミスも許されないと痛感しました。

【因縁の韓国戦に2度先発】

── 第1ラウンドは東京で(2対3)、第2ラウンドはアメリカに乗り込み(1対2)、いずれも韓国と対戦しました。渡辺さんは2試合ともに先発されています。

渡辺 2006年のWBCは、韓国戦の2試合と決勝のキューバ戦の計3試合に登板しました。じつは、韓国にはアンダースローの投手が多くいます。韓国打者の映像を見ていると、アンダースローへの対応は非常に参考になりました。ただその一方で、「彼らもアンダースローには慣れているはずだ」とも感じていました。だから、特別な苦手意識や初見で打ちづらいという感覚はないだろうなと思っていました。

── 韓国戦ですが、第1ラウンドでは4回2/3を投げて1失点、第2ラウンドは6回無失点と、王監督の期待に応える好投でした。

渡辺 でも勝ちにつながらなかったのが悔しくて、いい状態で抑えていて、まだ余力がありながらも"球数制限"で交代しなければならず、モヤモヤした気持ちだったことは覚えています。

── 当時の韓国代表には朴賛浩(パク・チャンホ)、李承燁(イ・スンヨプ)、金泰均(キム・テギュン)、李鍾範(イ・ジョンボム)など、日本で馴染みの選手も多かったですね。

渡辺 捕手が里崎智也(ロッテ)だったので、そういう主力打者に対してどう攻めるかは、すごく整理しやすかったです。特別なことをするより、シーズンでやってきた時と基本的に同じ配球でした。

── 特に李承燁選手は、チームメイトとして一緒にプレーしたこともありました。

渡辺 とにかく好打者なので、内角の厳しいコースを突いて崩していこうと、サト(里崎)との間で決めていました。結果的に抑えることができましたし、準決勝の韓国戦では上原さんが完璧な投球(7回無失点、8奪三振)で封じてくれた。あの試合も含めて、サトのリードがしっかり生きていたんじゃないですかね。

── あのWBCは、イチロー選手の「向こう30年、日本に手を出せないような勝ち方をしたい」という発言が韓国側に曲解され、強い敵対心をあおる形になりました。さらに第2ラウンドで韓国が日本に勝利した際、マウンドに国旗を立てるパフォーマンスがあり、イチロー選手が「僕の野球人生で最も屈辱的な日」と語るなど、両国の緊張感が一気に高まる出来事もありました。

渡辺 本来、イチローさんが伝えたかったのは「日本野球のレベルの高さを証明したい」というニュアンスだったと思うんです。ただ、韓国の選手にとっては日本戦に勝つことで兵役免除など大きな報奨があるとも聞きましたし、さまざまな背景が重なって、反発がイチローさんひとりに強く向いてしまった印象がありましたね。

【アメリカ戦での世紀の誤審】

── 第2ラウンドでは、2番にデレク・ジーター(当時・ヤンキース)、3番にケン・グリフィー・ジュニア(当時・レッズ)、4番にアレックス・ロドリゲス(当時・ヤンキース)を擁するアメリカと戦い、いわゆる「世紀の誤審」とも言われる判定があり、3対4で敗れました。あの場面で、選手たちはどのような反応を見せていましたか。

渡辺 2006年のWBCでの日本チームに対する期待値は低く、マスコミの報道も「ベスト8にいければすごいよね」という程度でした。東京ラウンドでは観客もまばらで、選手たちも「こんなものかな」と思っていた部分はありました。

 私自身、メジャーリーガーと対戦した経験はほとんどなかったので、アメリカ戦ではジーターやA・ロッドを目の前にして「かっこいいな」と感じたんです。でも、イチローさんは違っていて、最初から「世界一を狙うぞ!」という気持ちがあったと思うんです。

── どんな感じだったのですか。

渡辺 選手たちの言葉や表情、雰囲気をイチローさんは敏感に感じ取って、選手だけを集めて「オレたちの野球のほうが、日本野球のほうが上だ。絶対に勝てる!」と喝を入れてくれたんです。実際、イチローさんはその試合で先頭打者ホームランを打ちました。

── 2023年WBCの大谷翔平選手の「憧れるのをやめましょう」と同じですね。

渡辺 イチローさんは言葉と結果で示してくれました。そのおかげで、みんなが「よし、いけるぞ! 本当にアメリカに勝って、世界一になれるんじゃないか」と強く思えるようになりました。

── しかし、岩村明憲選手(当時・ヤクルト)の犠飛で西岡剛選手(当時・ロッテ)が生還しましたが、球審のボブ・デービッドソンが「離塁が早かった」と判定をアウトに覆しました。

渡辺 あの出来事がなければ、日本はそのまま勝っていたかもしれません。でも逆に、あれでチームはひとつになりました。それに、あの審判はアメリカ対メキシコ戦でも、ロジャー・クレメンス(当時・アストロズ)が打たれた"本塁打"を二塁打に覆す判定をしたんです。その判定でメキシコ打線に火がつき、アメリカは逆転負け(笑)。

── 結果、日本とアメリカとメキシコが1勝2敗で並びましたが、失点率(総失点を守備イニング数で割った値)で日本が準決勝に進出。「アナハイムの奇跡」となったわけですね。

渡辺 第1回大会では手探りの部分もあったのでしょう。試合日程が急に変わったり、ああいう判定があったり......。だから、準決勝進出と正式に告げられるまで、みんな疑心暗鬼でしたね。

【夢のようなWBC初代王者】

── 準決勝の相手は、この大会3度目となる韓国でした。福留孝介選手(当時・中日)が0対0の7回に代打決勝2ランを放つなど、6対0で勝利しました。

渡辺 あの試合は先発した上原さんの投球テンポがよくて、完璧でした。福留の2ランですが、王監督の勝負勘はすごかったですね。

── 決勝のキューバ戦、日本は1回に4点を先制。終盤追い上げられる場面もありましたが、10対6で勝利。渡辺さんも5回から3イニングを投げました。

渡辺 決勝トーナメントの韓国戦あたりからは、チーム全体が「世界一になれる」と確信していました。ただ、先発した(松坂)大輔はあの時、首を寝違えてしまって、マウンドで右手をブラブラさせると、それは「首の状態がよくないので、急いで肩をつくってくれ」という合図でした。僕は投げること自体は決まっていましたが、いつ行くかわからないリリーフの状況にはあまり慣れていませんでした。ブルペンで少しドキドキしながら見ていたのを覚えています(笑)。

── 記念すべき第1回WBCで、世界一に輝いた気持ちはいかがでしたか。

渡辺 世界一になった時は、信じられない気持ちでいっぱいでした。夢じゃないかな、と。前年の2005年、ロッテはシーズン2位から31年ぶりの日本一に輝き、アジアシリーズでも勝ってアジア1位に。そして今度は世界一。「持ってるな」というより、目が覚めたらプロ入り前に戻っているんじゃないかと思うくらい、信じられなかったですね。

つづく>>


渡辺俊介(わたなべ・しゅんすけ)/1976年8月27日生まれ、栃木県出身。國學院栃木高から國學院大、新日鐵君津を経て、2000年のドラフトでロッテから4位で指名され入団。03年から先発ローテーションに定着。第1回、第2回WBCに出場し、世界一を経験。13年限りでロッテを退団し、その後、アメリカの独立リーグやベネズエラのウインターリーグを経て、新日鐵住金かずさマジック(19年から日本製鉄かずさマジック)の選手兼任コーチとなり、19年12月に監督に就任。25年限りで退任した

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