FIFA(国際サッカー連盟)の混迷を理解するには、時計の針を2015年5月に戻さなければならない。

 当時のFIFA会長ゼップ・ブラッターが再選を目指したFIFA総会の前日、世界中から集まったサッカー関係者が宿泊する高級ホテルに、スイス警察が踏み込んだ。

要請したのはアメリカ司法省。FBI(連邦捜査局)の捜査協力のもと、FIFA幹部が次々と逮捕された。その映像は世界中へ配信され、「サッカー界最大の汚職事件」は一瞬で国際ニュースとなった。容疑は贈収賄、資金洗浄、組織犯罪......。後に「FIFAゲート」と呼ばれる事件である。

 1998年から17年間にわたり世界のサッカーを支配してきたブラッターは辞任へ追い込まれ、次代を担うはずだったUEFA(欧州サッカー連盟)会長ミシェル・プラティニも失脚した。ふたりのトップが相次いで表舞台から姿を消した。

 そんな混乱のなかで、ひとりの男が表舞台へ押し出された。ジャンニ・インファンティーノ。イタリア系スイス人の弁護士だった。当時の彼はUEFAの事務局トップを務める裏方的な存在で、サッカー界でもその名前を知る者は決して多くなかった。

「ワールドカップ売却計画」は断念も残る火種 FIFAインファ...の画像はこちら >>
 2016年2月、インファンティーノはFIFA会長に選出された。
腐敗の中心人物ではなく、旧体制の顔でもなかった彼は、「過去と決別する象徴」として受け入れられた。就任演説で彼が最初に掲げた公約は「透明性を取り戻す」「倫理審査を強化する」「ブラッター時代とは決別した新しいFIFAを作る」......そのメッセージは、腐敗にうんざりしていた世界中に希望を与えた。クリーンで公正で効率的なFIFAを実現できると信じる者は少なくなかった。

 この時のインファンティーノは理想的なリーダーに見えた。カリスマではなく、強烈な個性よりも調整力と実務能力を武器に、壊れかけた組織を立て直そうとする現実主義者だった。実際、その手腕は結果にも表れる。FIFAの収益は過去最高を更新し続け、女子ワールドカップは規模を拡大し、クラブワールドカップも新たな形へ生まれ変わった。

 少なくとも数字だけを見れば、インファンティーノ体制は成功だった。だからこそ、彼の権限も少しずつ大きくなっていく。その変化はゆっくりで、多くの人は気づかなかった。権力とは静かに集中するものだ。そして気づいた時には、それを止めることが難しくなっている。

【契機となったカタール大会】

 2022年のカタールワールドカップで、FIFAは史上最高の商業的成功を収めたが、その一方で、大会をめぐる議論がピッチの外で続いていた。スタジアム建設に従事した外国人労働者の問題や、表現の自由や人権をめぐってカタールが開催国として本当にふさわしかったのかという議論だ。

 だが、インファンティーノは人権問題を批判するヨーロッパ諸国に対し、逆に「ダブルスタンダードだ」と強く反論した。さらに議論を呼んだのが、インファンティーノが生活の拠点をカタールのドーハへ移していたことだった。もちろん、会長がどこに住むかは個人の自由である。しかし、開催国との距離があまりにも近く見えたことは、多くの人に「FIFAは中立であり続けられるのか」という疑問を抱かせた。それは「FIFAは誰のために存在する組織なのか」という根本的な問いが、少しずつ語られるようになる契機となった。

 そして2026年のワールドカップ。それはFIFAにとって長年描いてきた夢だった。より多くの国が参加し、より多くの試合を行ない、より高く放映権を売り、より多くのスポンサーを集める。その先にあったのは、収益規模のさらなる拡大だった。

 インファンティーノは大会期間中、ほぼ毎日のように北米各地を飛び回っていた。同じ日に2試合を視察することも珍しくなかった。

そして大会が終わった直後、ひとつの文書がFIFA内部からメディアに流出する。タイトルは「FIFA Forward Enterprise」、略称FFEだ。

 最初、その名称を見ても、何を意味するのか理解できた人はほとんどいなかった。しかし、内容が明らかになるにつれてサッカー界は騒然となる。それは新しい会社を作るというだけの話ではなかった。ワールドカップという世界サッカー最大の資産そのものを、新会社へ移そうという構想だったのである。

 ワールドカップをはじめとするFIFA主催大会のテレビ放映権、スポンサー契約、マーケティングなどのあらゆる権利をひとつの会社が管理する。推定企業価値は約200億ドル(約3兆1000億円)。さらに、その株式の約20%を民間投資家へ売却する構想まで含まれていた。もし実現すれば、FIFAは40億ドルを超える資金を一度に調達できる。

【政治や巨大資本との距離に不安】

 数字だけを見れば、極めて魅力的なビジネスで、この計画を支持する声もあった。サッカー市場は拡大を続けている。新たな投資を呼び込めば、加盟協会への支援も増やせ、発展途上国への還元もできる。

インファンティーノが考えたのも、おそらくそうした未来だったのだろう。「FIFAをより強くするための改革」だと。

 しかし、問題はお金ではなかった。誰がその資産を支配するのか、だった。さらに、計画に関わる人物の名前が報じられると、疑念は一気に広がる。

 FFE設立に深く関与するとされた投資会社の代表はジョシュア・クシュナー。ドナルド・トランプ大統領の娘イヴァンカの夫、ジャレッド・クシュナーの実弟である。加えて、アメリカの大手金融機関JPモルガンが金融面で関与するとされ、2034年ワールドカップ開催国サウジアラビアの政府系ファンドPIFも、資本参加に前向きだと報じられた。それらが不正を意味するわけではないが、政治と巨大資本との距離が急速に縮まったように見えたことが、多くの関係者に不安を抱かせた。

 この構想を実現するためには、211ある加盟協会の過半数の支持とFIFA理事会の承認が必要だった。そこでFIFA執行部は各協会に対し、支持を求める文書を送る。そこには従来の支援金とは別に、各協会へ数千万ドル規模の特別支援を行なう可能性も記されていた。

規模の小さい協会にとって、それは決して無視できる金額ではなかった。これは加盟協会の理解を得るための文書なのか、それとも賛成票を集めるための材料なのかという議論が起き始める。サッカー界の空気は一気に張り詰めた。

 FFEをめぐる議論は、サッカーという競技の未来を誰が決めるのかという問題だったのである。

 最初に動いたのはヨーロッパだった。UEFAは緊急会議を開き、55の加盟協会がFFE構想を支持しないことで一致。声明のなかで最も強い印象を残したのは「FIFAの資産は加盟協会のものであり、FIFA会長個人のものではない」という言葉だった。「必要であればFIFA主催大会のボイコットも辞さない」という強硬な姿勢まで示した。

 ヨーロッパだけでは終わらなかった。北中米のCONCACAF(北中米カリブ海サッカー連盟)も、「FIFAは民間企業ではない」と異例の声明を発表する。AFC(アジアサッカー連盟)からも、「世界サッカーの連帯を損なう」と懸念が示された。これまでインファンティーノを支えてきた地域からも、「説明が足りない」「拙速すぎる」という声が上がり始める。

【高まるFIFAへの不満】

 FIFAの組織の内側でも、静かな異変が起きていた。長年インファンティーノを支えてきた側近たちが、次々と距離を置き始めたのである。アメリカサッカー連盟の元会長で、インファンティーノの上級顧問を務めてきたカルロス・コルデイロは辞任を表明した。彼は「FIFAはすでに莫大な資産を持ち、負債もない。世界サッカー最大の財産を売却する理由は存在しない」と語った。

 COO(最高執行責任者)のケビン・ラムールは、「職員たちはあざむかれた」「この計画は、たったひとりの人間によって進められた」「たとえ職を失っても構わない。少なくとも私は安心して眠ることができる」と発言。FIFA本部の空気が変わり始めたことを象徴する出来事だった。

 7月31日、インファンティーノは声明を発表。計画を断念する意向を明かした。

 実はこの問題以外でも、FIFAへの不満は高まっている。選手たちを代表する世界プロ選手会(FIFPRO)は、過密日程が選手の健康を脅かしているとして警鐘を鳴らしている。クラブチームは、昨年のクラブワールドカップの際に約束された分配金が支払われないことに不満を募らせる。それぞれの問題は別々に見えるが、根底にある問いは同じだった。

「FIFAは誰のために存在しているのか」

 思えば10年前、インファンティーノが選ばれた理由も、その問いへの答えだったはずだ。腐敗したFIFAを変える。透明性を取り戻す。サッカーをサッカーに返す。世界はその約束を信じた。だからこそ今、失望もまた大きい。今回のFFE構想に対する反発は、単なる新会社への反対ではない。FIFAの現在のあり方に対する「ノー」だったのである。

 2027年3月、インファンティーノは再び会長選に臨むと見られている。彼はこの危機を乗り越え、再び支持を集めるのか。それともサッカー界は新たな時代を選ぶのか。その答えはまだ誰にもわからない。

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon

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