この記事をまとめると
■物心ついた頃のクルマの思い出を語ってもらう本連載■今回は石橋 寛さんに語っていただいた
■祖父が乗っていたランドクルーサーがお気に入りだった
「塗る前?」と言われたボディカラーのクルマも
今は亡き元F1レーサーにして希代のモータージャーナリスト、ポール・フレール先生の自伝が出版されています。お読みになった方も多いかと思いますが、それによると生まれて初めて触れたクルマはパナールとかなんとか、優雅なメイクスだったような気がします。さすが、フレール先生のお宅は違うと、読んだ当時はいろいろと感心した次第。
一方、筆者の物心がついた頃、ウチにあったクルマは、今となっては名前もわからない小豆色のライトバン。お隣さんは真っ赤なポンティアック、裏の方にはトヨタのマークIIなんかがいましたので、子ども心に「致命的なまでにダサい」と委縮することしきり。記憶に残っていることはまったくといっていいほどなく、本当にあったのかどうかさえ不安になるほどですが、重たくて安っぽいドアは力いっぱい閉めないとすぐに半ドアなったことだけは頭の片隅に残っています。というのも、鬼より怖かった父から「ちゃんと閉めろ!」と怒号をあび、頭をバンバン引っぱたかれたからであります。
※写真はトヨタ・マークII(3代目)
また、ライトバンと同時にフォルクスワーゲンのタイプIIもありました。商売を営んでいた我が家では「デリバリバン」と呼び、ライトバンでは運びきれない場面で使われていたかと思います。フロントシートからのアイポイントがライトバンより高いのは気に入ってましたが、いい記憶はそれだけ。なにしろ、ボディサイドにペンキでもってデカデカとウチの屋号が描かれており、どこへいってもバレるわけです。また、薄い艶消しカーキというボディカラーも今ならシックと受け止めることもできますが、当時としては地味! というより「塗る前?」みたいな軽口を叩かれたりして、ほんと辛かった(笑)。

で、デリバリバンは父曰く「ガソリン撒いて走ってる」ほど燃費が悪く、また冬場の暖房があまりにプアなことから、筆者が中学に通うようになったころにはお役御免となりました。ですが、このクルマをただで引き取ってもらった先から、妹が再びサルベージしてきたという後日談も。結局、長期間放置されていたせいで、レストアはかなわなかったのですが、仮にうまいこと修理できたとしても、あのガソリン臭くてうすら寒いクルマには喜ばなかったかと思います。
祖父から貰ったロールスロイスのミニカーは印象深い
ただ、同じ頃に祖父が乗っていたランクル(FJ56)だけは子ども心がビンビンうずきましたね。サイドステップなんかありませんでしたから、乗り込むのにも苦労するほど大きな車体は「なんか、すげー」だし、バックギヤに入れるとピーピー鳴るのを聞けば「おお、鳴ってるー!」さらに、リヤウインドウがコンソールのスイッチ入れたら自動で開閉したので「開いたー!」「閉まったー!」とアホ丸出しで喜んでおりました。

とはいえ、薄いブラウンとベージュのツートンカラーは「やっぱジジくせー」と内心で蔑んでいましたけどね(笑)。ちなみに、祖父は56の後で60系をゲット。こちらのボディはホワイトだったのはまだしも、なにを思ったかボディサイドにゼッケンよろしく電話番号の下4桁をデカデカと書き込むという謎の行為。さらに、祖母が乗り降りしやすいようにつり革を垂らしたものですから、中学生になっていた筆者は「これだから年寄りは」と肩をすくめるしかありませんでした。

少し話がそれますが、そんな祖父がくれたプレゼントでよく覚えているのがミニチュアカーでした。よりによってロールス・ロイスのシルバークラウドで、台座にはめられた43分の1サイズだったと記憶しています。

「こりゃロールス・ロイスってクルマじゃ」と手渡し「大きくなったら、こういうの乗りんしゃい」と喜色満面な祖父。なんとも壮大な無責任ではありますが、「ウン!」と声を張り上げた筆者。
ですが、本心は「大きくなったら、この台座外そ!」
ガキにとって、それほど台座がウザかったというお話。ともあれ、やっぱり我が家は名門フレール家にはどうしたって追いつけないようです(笑)