野球やサッカー、バスケットボール、バレーボール…スポーツの中でも特に高校の部活動は日本でマンガの題材になりやすいテーマです。ひぐちアサ先生の『おおきく振りかぶって』(講談社)もその一つ。
女性監督、選手は全員1年生――県立西浦高校の新設野球部に集まった10人の選手が甲子園優勝を目指す野球マンガ。体作りから野球技術にメンタルトレーニングまで、取材や参考資料に基づく話をベースに、試合ごとの戦略や心理戦を綿密に描くのが特徴。
初心者にも経験者にも、成功体験を積み重ねられる環境を
『おおきく振りかぶって』(以下、『おお振り』)は、埼玉県の県立高校を舞台に1年生だけが集まった硬式野球部が甲子園を目指すスポーツマンガです。中学校で軟式野球部に入っていた人もいれば、野球に対してより意識が高いシニアチームを経験した人もいます。
そして、中には未経験で入部する人も。登場人物の西広辰太郎(にしひろ・しんたろう)もその一人です。中学では陸上部に所属していた彼は、高校で野球を始めた初心者。そのため「グローブでボールを捕る」といった基本的なことも、最初は難しい。しかし部員は10人しかいないため、西広も試合に出る可能性はゼロではありません。まずは大きく打ちあがったフライを捕る練習から始め、周りの経験者たちも西広に助言をしていきます。

興味があって参加した場所でも、周りとの差が大きい中で失敗や負けが続くと「向いていないのかもしれない」と、その場を去る動機になりがちです。
それを防ぐのが成功体験。メンバーが「自分はできる」とまずは実感できる環境を整えることは不可欠です。
実は経験者についても同じことがいえます。監督が外部から招いたメンタルコーチは、技術の習得の場である練習は、成功体験を積み重ねる場所にするべきだと提案します。

そのアドバイスを受け入れた結果、監督は練習中にミスをした選手に対して「いいミスだよ!」と褒め、「欠点わかったらそこ練習すればいいんだよ!」と声を掛けるようになります。

メンタルコーチが作中で指摘するように、人によってはミスを怒られると委縮して苦手意識を持ってしまいます。その苦手意識は練習では邪魔になり、試合中にもミスをするイメージを浮かべることにつながり、結局いい動きができません。部員からもミスを褒められることで「体が軽くなってビックリした」という感想が出てきます。こうした積み重ねによって、常にメンバー全員がプラスのイメージを持ち続けられるような環境を作ることにつながるのです。
もちろんビジネスシーンでは取引先を怒らせる、営業先への提案を失敗するといったミスを褒めることは現実的には難しいでしょう。ただ、社会や経済環境が大きく変わる今は、「失敗するかもしれないような新たな挑戦をしない」という選択肢は考えにくいもの。
ただ、人を褒めるのは意外に難しいもの。『おお振り』の場合は野球部の指導なので技術などを褒めればいいのですが、もっといろいろな利害を持つ人が集まる会社などの組織では、人を動かすための誉め言葉も適切に選ぶ必要があります。たとえば『やる気を引き出す!ほめ言葉ハンドブック』(PHP文庫、本田正人・祐川京子共著)には、相手が重視しているところを見抜き、具体的に褒めることの重要性が指摘されています。ビジネスシーンならどういった言葉が適切なのか、改めて考えてみてはいかがでしょう。
チーム内を引き締める、適切なライバルづくり
チームメンバーの誰もが自信を持って前に進むことができる環境が整えば、その中でさらに個々人の力を伸ばすことが求められます。その手法の一つが、チーム内でライバルを意識させること。チームのメンバーは、一つの目的に向かって協力する相手であると同時に、競い合う相手なのです。
『おお振り』では、花井梓(はない・あずさ)と田島悠一郎(たじま・ゆういちろう)の関係が特徴的です。中学時代に主将を務めた強打者・花井と、シニアの強豪チーム出身の田島。いずれも10人の部員の中で頭一つとびぬけた野球の技術と運動能力を持ちます。ただ、試合を重ねる中で田島の力を目の当たりにした花井は無意識に「2番手でいい」と思い始めます。その中で花井を育てるために監督は、意図的に花井に田島をライバルとして意識させます。

明確に描かれているわけではないのですが、花井はいろいろな人に対して勝ち負けで考えるタイプ。監督は花井を自分の外にライバルがいるほうが前に進むモチベーションを持ちやすいとみたのでしょう。チームの攻撃の主軸として「ホームランを打てる」ように助言していきます。
なお、田島はどちらかというと過去の自分と比べて何ができていて何ができていないかを考えるタイプ。もちろん体格的に優位な花井をうらやむことはありますが、それよりも自分に求められる役割と何ができるかを考えて前に進むタイプとして描かれています。
ただ、注意すべきはこのライバルを意識させることがあらゆる人に対してうまく機能するわけではないということ。花井のように過去の経験と実績から自分に自信があり、信頼する人からの叱責を奮起するきっかけにできる人に対しては、身近なライバルを設定することは有効ですが、周りに比べて劣等感を持つ人や自信がない人に対して逆効果となります。
『おお振り』でも、監督は花井にはこのプレッシャーをかけ続けるものの、ほかの部員に対してするところは描かれません。ここから言えるのは、ライバルを意識させるのはそれが有効な相手に限るということです。
過去の「成功」は、目の前のメンバーにあわせて応用する
これ以外にも、チーム作りやメンバーを鍛えるにはいろいろな手法があります。いずれに方法を取り入れる上でも重要なのは過去の失敗・悪習慣を繰り返さないことです。特にメンバーの心身の健康を害するようなことはむしろ積極的に取り除いていくべきです。
『おお振り』では女性監督が主導で指導していたチームに、監督の父親がコーチとして加わります。

自分自身は精神的にも肉体的にも監督に追い詰められながら選手として成長したものの、大学で肩を壊して選手を辞めたコーチ。仲間にも故障で辞めた選手がいることから、練習に負荷をかけつつも、怪我をさせないことを第一に考えたトレーニング方法を提案していきます。「どこまで選手を練習で追い込むか」を巡り選手側と対立する場面があるものの、提案する内容はいずれも故障させない=選手生命を終わらせないことを重視するものです。
監督の父親が選手だった時代は、人数も多く、練習についてこられない人を選別し、目的(=試合での勝利)にあう人を極限に追い込むような練習で鍛えていたのでしょう。しかし、それが怪我などで選手生命を終わらせたことも事実。かつ彼が教える西浦高校には、ついてこられない人を切り捨てるほどの余裕はありません。
これは企業などほかの組織でも同様です。これまで成功につながっていた過去の経験や蓄積は、当時の目的には機能していたかもしれません。しかし、監督の父親の仲間のように、ついていけなかった人はいました。過去の成功体験を引きずりすぎて、結果的に目の前の今のメンバーに逆効果になるようでは、過去の成功例を活用するとはいえないでしょう。
「厳しい環境を自分は乗り越えられた。だからほかの人も大丈夫だ」と思い込まず、常に今目の前にいるメンバーがどのような働く環境を求めていて、どうすれば達成できるのかを考えていくということです。『おお振り』で描かれているように、同じ「叱責」「怒り」「鼓舞」「指導」でも個人や関係性によって受け止め方は違うのです。
【まとめ】
試合の行方と選手の成長に目が行きがちなスポーツマンガですが、最近は練習や人間関係、メンタル面の成長などを丁寧に描く作品が増えています。『おお振り』もその一つと言えるでしょう。チーム作りを考えたい人には必読の作品です。
(文/bookish、企画・監修/山内康裕)