「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】
柳家花緑 撮影:吉田圭子

──令和7年春の真打昇進は5名中3名(柳家緑太師匠、花飛師匠、吉緑師匠)が花緑師匠のお弟子さんですが、10名もの弟子を育てた育成への想いをお聞かせ下さい。



最初にきた弟子も2番目ももういなくて。

3番目にきた子が今、筆頭になっているんですが、祖父に相談したときに「教えることは学ぶことだから(弟子を)取りなさい」と言われたんです。ふたり、3人と取るうちにそれが祖父の実感がこもった言葉だったんだなぁと。祖父は40人もの弟子を育てていますから、いいことばかりじゃない、辛いことやたいへんなことがいっぱいあった中で、自分が育っていったということですよね。祖父に言われて覚えているのが「弟子の来ねえ噺家は駄目だ」という言葉。縁なんですよね。僕もひとり辞めさせた子がいて、自分から辞めていった子が5~6人いますから。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──この企画で落語家さんにインタビューさせていただくと、“なぜこの師匠に弟子入りしたのか”という話になって、例えば(花緑師匠のお弟子さんの)柳家花ごめ師匠にお話を伺った際に、“師匠の本を読んで、もうこの人しかいないと門を叩いた”とおっしゃって、どう育てていただいたかを詳しく教えて下さいました。師匠と弟子の関係は本当に千差万別なんだと実感しました。



祖父と僕の考え方、育て方はまた違うので、時代も違いますし。今想うのは“弟子を取ってから師匠の修業が始まった”ということですね。「弟子は師匠なり」だから、僕にとっては師匠が10人居る。振り返ってみると、小さんには40人から師匠が居た。

研磨されて初の人間国宝になった。僕は最初の弟子を取ってから25年くらい経っているので、25年間、弟子に研磨させてもらっているということなんですよ。



弟子がくると弾みがつくんです。真打になったあとのドラマがないんですよ、僕らって。前座、二ツ目、真打、トリを取った、と、ここまではドラマがありますけど、この先って例えばマスコミに出るとか、番組に出演できたりするとご贔屓筋が色めき立つんです。今の言葉で言うと、自分の“推し”だから。推しがテレビに出たとか、賞をもらったとか、お弟子さんがきたとか、ステップアップしていく。そして僕らは定年が無いですから。命ある限りやっていく。僕はおかげさまでテレビにも出られたし、お弟子さんもきたし、落語家の理想みたいなところを歩かしていただいているのは事実ですね。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──確かに師匠は落語家の醍醐味を幅広く体験されている印象がありますが、ご本人からするとそれはたいへんなプレッシャーと戦ってきた中での結果だということですね。



去年亡くなった松岡正剛さん(注:実業家、編集者、著述家)は、僕が真打になってすぐに声をかけてもらったので30年くらいお付き合いがあったんですけど、正剛さんいわく“花緑君は勇気がある”って。

遺言ですね。スタッフさんから“松岡がそう言ってます”と告げられた。正剛さんの最期の仕事は僕の仕事だったんです、実は。滋賀県でやる(和菓子メーカーの)叶匠壽庵さんのイベントに顔出しするはずが、打ち合わせだけして8月に亡くなったんです。だから自分がここまでこられたのはたぶん“勇気”でしょうね。でも勇気っていうのは、全てがわかったうえでやるんじゃなくて、わからなくてやってることのほうが多い。わかってたら怖くてできませんでした。なんでしょうね、環境が僕にはプラスに働いたんでしょうね。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──一方で師匠は、ご自身が発達障害(ディスレクシア【認字障害】)であることも公表されていて、著作もありますね。



実は弟子の(柳家)花飛も自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如多動症(ADHD)で、著作で対談もしています。でもあいつは東京理科大学に行ってるんですよ。めっちゃ頭が良い。

今回の真打昇進もプレッシャーかかってたいへんです。こないだ初日を終えて、「どう? ホッとした?」と訊いたら、「はい、ホッとしました」と笑っていたので良かったなと。



僕も考えてみたら22歳で戦後最年少の真打と言われたときに1年くらい前から結構ナーバスになって、躁鬱っぽいことが真打になったあとも続きましたね。でも自力でそこをなんとか抜けていくんですけど、でも友だちや近しい人に相談してガス抜きさせてもらって、みんなが“まあまあ”って慰めてくれて、その慰めがボディブローのように効いてきて、一時期死にたいと思うほど追い詰められたこともあったんですが、その後一切そう思わなくなった。うちの師匠が葬儀委員長で孫が死んで泣いてるシーンを勝手に想像しちゃって、そのシーンが怖くなって、“こんなことを師匠に言わせちゃいけない”ってそれが最終的に“絶対死なない壁”になったんです。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──落語界のサラブレッドでもありスーパースターである印象の強い師匠が、発達障害を公表されて、作家としてたくさんの著作を出されているが認字障害であるということが、人間は万全でないし人生を生きていかなくてはいけない中で、師匠が発達障害を抱えながら活躍されている姿に励まされる方は多いと思いました。



僕自身をもうちょっと俯瞰で客観的にみると、小学校1年から成功体験がない訳ですよ。落語が一筋の蜘蛛の糸みたいな光になるんです。褒められたりすると喜んでその気になって。でもだんだん自分が小さんの孫でオミソだということがわかって、本当の実力で受けてないというのがわかって。それでも一生懸命やっていたら賞が取れて、そこからだんだん自分を信じるっていう意味で自信がついてくるんですよね。稽古すればその分、見返りがあるんだって。

自分が没入していけるようになっていったと思います。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

結局、勉強のベースがない、モノを知らないというところも多かったと自分では感じてますし、モノとの向き合い方が雑ですよね。勉強できる子はコツコツできる。それは弟子の花ごめに感じた。彼女は勉強ができるので。ずっとどんくさかったんですよ(笑)。ほんとに心配だったけど、ふたを開けてみたら“こんなに落語うまかったっけ?”と思うくらい。数年前にがらっと変わったんですよね。いかにも内向的な感じだったのが、憑きモノが取れたように笑顔が朗らかになって。回りも“良くなったね”と言ってくれて、僕が見ても良い高座をやるようになって。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

いつも僕の前方を務めてるから軽いネタしか聞いたことがなかった。かと言って“独演会やりました”という報告も上がってこないし。

でもとんでもない。昨年秋の真打昇進の興行でも僕の教えてない演目、トリネタを次々と、全日程ネタを変えてみたり。僕が冗談で「教えたネタを全然トリでやらない」って言ったら、「今日、師匠にそんなこと言われちゃいました」と僕のことディスる余裕まで高座であって(笑)。良い意味で化けてくれた。彼女を見ていて思ったのは、コツコツやるのが得意なんだろうな、と。僕にないものはそこだと。弟子からほんとに学んでいます。



回りに恵まれてますよ。うちの祖父も言ってました。いつもいつも良い方向に転んでいったと。祖父もプラス思考の人だったので、それは僕もおかげさまでそう感じますね。だってこの「ぴあ落語ざんまい」だって、ぴあ社長の提案で、菊之丞師匠と私に縁があって、他の噺家だって全然よかったのに。

なぜかそのとき「TEAM SMILE」(注:ぴあが発足した震災復興のボランティア活動)でお世話になったから、と声をかけていただいて。こういうふうになるとは思わなかった。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──「ぴあ落語ざんまい」事業にとって、花緑師匠、菊之丞師匠はまさに恩人です。



僕はぴあの皆さん、凄いなと思って。噺家ひとりひとりに毎回ちゃんと「落語ざんまい」の経緯をとても丁寧にお話いただいたのに感謝しています。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

──これからの落語についてどう思われていますか。



未来になって過去を振り返ったときに「ぴあ落語ざんまい」はひとつの分岐点だと思う。コロナ禍でエンタメが8割減という現実に、落語でサブスクリプションをやるという着眼点を持ってくれて、末廣亭さんが“カメラを入れる”というチャレンジングなことを快諾してくれて。まさか、一番録りたかったああいう末廣亭の構えで収録ができるということが実現した。そして一国一城の主である落語家ひとりひとりに丁寧に話をしてくれてここまで形になったという奇跡。ここがまず“落語の未来”を観ている。今まで全く考えられなかったことを観ている。その凄さをどれだけの人が分かっているかは別にして。「これ観るなら寄席行けばいいよ」という人は環境の整った人で。そうでない人にとってどれほど面白いコンテンツであるか。アーカイブがこれだけたくさん繰り返し観られる。それを利用している方が全国にいらっしゃると思うと、凄いことをやって下さってるなぁと。ぴあというブランドの信頼と末廣亭というブランドの間に入ってくる芸人で成り立っている。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

もうひとつ思っているのは、亡くなった方とか高座に上がれなくなった方のアーカイブが残っているのがまた良くって。去年亡くなった(金原亭)馬遊さん。僕は後輩だけど、懐かしんで「落語ざんまい」を観られて、“馬遊師匠、こんな感じの高座だったんだぁ”と涙ながらに観たのを覚えてますよ。



そしてたくさんの噺家をカバーしているじゃないですか。テレビの番組に出ない噺家さんがぴあはカバーしている。これはたいへんなことだと思っていて、その価値をお客様も演者もわかっているか(笑)。これからも生で演る芸、ライブの価値はずっと下がらないし、あのときにあの空間に生で居たということにも価値が出る。どんどんそうなっていけばいいと思うんですよね。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

あとは、未来として心配しているのは“成り手が少ない”。うちの協会(落語協会)だけじゃなくって、落語芸術協会も、(五代目)円楽一門会も、(落語)立川流も、大阪の上方(落語協会)も。コロナになってピタッと激減している。歌舞伎もそうだって。どうも伝統芸能全般に、若手の成り手が少ない。



今、助けになるのは、(山崎)育三郎さんがミュージカル『昭和元禄落語心中』をやって下さったり、(週刊少年)ジャンプで連載している『あかね噺』とか。そういうものからまた夢を見ていただく。他ジャンルが持ち上げてくれると、フィードバックがありますよね。実際の落語はどうなんだろうって。僕も若いころ雑誌『ぴあ』があったときにだいぶ採り上げていただきました。その頃『ぴあ寄席』をやってましたから出させてもらって。“若い読者が初めて落語を聞く”みたいな。そういう“落語より一歩お茶の間に近いジャンル”が橋を作ってくれると、生き残っていくひとつのエネルギーになりますね。



「弟子を取ってから師匠の修業が始まった」柳家花緑インタビュー【後編】

僕は今54歳で、10年経つと64でしょ。看板の位置にどんどん入っていくので、弟子たちが僕の位置にずれてくる。どういう発信ができるか、ですよね。それは他ジャンルの人たちと交流ができるかにもかかってるでしょうし、日々の過ごし方が未来を決めていくのでその辺どうなるかですよね。でも若手で有望株もいるので、そういう意味では暗くは思っていないです。



 

取材・文=浅野保志(ぴあ)
撮影=吉田圭子



                  

<プロフィール>
柳家花緑(やなぎや・かろく)



1971年8月2日生まれ、東京都出身。1987年、祖父・五代目柳家小さんに入門、前座名「九太郎」。1989年、二ツ目昇進「小緑」と改名。1994年、戦後最年少の22歳で真打昇進「花緑」と改名。



 

<サービス概要>
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