関東大震災から100年目の劇映画『福田村事件』…「日本のメディアがゴミだと思うなら、それは社会もゴミだということ」ドキュメンタリー作家・森達也がそれでも日本に絶望しない理由

オウム真理教を内部から映し出した『A』や、ゴーストライター問題を題材にした『FAKE』など、ドキュメンタリー作家として活躍してきた森達也が、初めて劇映画『福田村事件』を監督。関東大震災から5日後の1923年9月6日に、千葉県福田村で実際に起こった行商団9人の虐殺事件を題材とした映画の製作背景を聞いた。

“集団”と“個”はずっと描いてきた大きなテーマ

──福田村事件が起きたのは、関東大震災発生から5日後の1923年9月6日。香川県から福田村(現在の千葉県野田市)にやってきた薬売りの行商団9人が朝鮮人と間違われ、自警団を含む100人以上の村人たちに殺された事件です。2001年に小さな新聞記事を読んでこの事件を知ったそうですが、映画にしたいと思うほど惹きつけられた理由は?

僕の映画製作の原点は、オウム真理教の信者たちを被写体にした『A』(1997)です。あの映画を撮るときに感じた「なぜこんなに穏やかで純真な人たちが事件を起こしちゃったんだろう」という疑問は、僕の中で通奏低音みたいに今も響いています。

その問題提起に対してのひとつの答えは、“組織”、あるいは“集団”です。個人であれば決してできないことを、人は集団の一部になったときにやってしまう。虐殺や戦争が典型だけど、そういう歴史は世界中にいくらでもあります。

人は一人では生きていけないし、群れることを覚えたからこそこれほど繫栄したけれど、集団になったときの副作用もあるわけです。

“集団”と“個”の相克は僕にとって大きなテーマになっていて、『A』や『A2』はもちろん、その後に作った『FAKE』(2016)や『i-新聞記者ドキュメント-』(2019)にも繋がっています。今回の『福田村事件』(2023)は劇映画として、そのテーマを集大成的に表現できたと思っています。

あともうひとつ、日本社会全般がこの20年ほど、特に安倍政権以降、負の歴史を忘れようとする傾向が強くなっていると感じています。それは映画も同じです。負の歴史を描いた劇映画はほとんどない。
ドキュメンタリー映画ならたくさんあります。でも悔しいけれど、ドキュメンタリーはマーケットが限定されてしまう。映画業界の端くれにいる立場として、負の歴史を描かないとおかしいだろうという思いもありました。

ナチスやホロコーストについての映画は、ドイツも含めて多くの国が量産しています。黒人差別や先住民虐殺、ベトナム戦争の負の歴史などをテーマにしたアメリカ映画も数多い。韓国だって、軍が市民を大量虐殺した光州事件をテーマにしながらエンタメ作品として結実させた映画『タクシー運転手』が大ヒットしたりもしている。

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──これまでのようにドキュメンタリーとして製作する考えはなかったのでしょうか?

100年前で、しかも隠されてきた事件ですから、撮れる素材がとても少ない。映画は無理です。テレビの報道枠で10分くらいの特集ならできるかもしれないけど、映画にするなら、これはフィクションとして作るしかないと思いました。

──被害に遭った行商団の男女比など、史実に忠実に描いている部分もあるそうですが、劇映画として盛り込んだ“嘘”は?

主役のふたりは完全なフィクションです。井浦新さんが演じた澤田智一と、田中麗奈さんが演じた妻の静子は、日本統治下の京城を離れ、故郷の福田村に帰ってきた設定なので、言ってみれば“よそ者”なわけです。

東出昌大さんが演じた倉蔵も、百姓が多い村で船頭をしている異質な存在だし、コムアイさんが演じた咲江も村の外から嫁いできた人。

閉鎖社会の中での異物を配置することで、ドラマツルギーを作れないかと思いました。その辺りは作為的です。

でも、嘘と言うなら全部嘘ですよ。史実に即した映画ではなく、史実からインスパイアされて創作された映画。そう思ってもらっていいです。

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──これまで監督は、徹底的に当事者の視点であらゆる事件を捉えてきたと思います。

今回、当事者ではない人間を主人公にしたのはなぜですか?

だってこれは劇映画だもの。……まあ、もう少し丁寧に言えば、僕の視点かもしれません。ドキュメンタリー作品での僕の視点が、劇映画の『福田村事件』では、智一になったり静子になったり、倉蔵になったりしたんだと思います。

報道は“視点”であり、信じるものではない

──キャストも豪華ですね。

キャスティング作業を始める前に、プロデューサーと「俳優集めが大変だよね」と話をしていたんです。公開されたら反日映画として炎上するかもしれない映画に、誰が協力するんだろうと。

でも東出さんがまず最初に、「森監督が映画を撮るなら、どんな役でも出ます」と言ってくれました。

それまで交流はなかったのですが、映画化の話を聞きつけて連絡をくれたそうです。新さんもその段階ではほぼ内定していました。僕以外のスタッフはほとんど旧若松プロの面々で、彼はその若松プロの看板俳優でしたから。

麗奈さんはしばらく悩んでいたけれどOKしてくれました。ただし悩んだ理由は、この作品が批判されたら、などの危惧ではなく、純粋に役作りで煩悶されていたようです。瑛大さんとか水道橋さんとかピエール瀧さんとか豊原さんとかコムアイさんとか、僕の印象だけど、みなほぼ二つ返事で即答してくれました。

オーディションも1000人以上が応募してくれて、かなりびっくりしましたね。みんな尻込みするかと思ったけど、そうじゃなかった。メインの俳優はもちろん、エキストラに志願してくれた人たちまでも含めて、すごく意気込みを感じました。

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──事件の当事者ではない人物の視点が加わっているとはいえ、劇中では被害者や加害者の視点も等しく描いています。加害者を断罪するわかりやすい勧善懲悪ではなく、「村八分にされたくない、家族を守りたい」など加害者にも加害者の立場があったことを提示する物語に、なんとも後味の悪さを感じました。

うん。後味が悪い映画にしたかったから、それでいいんです。加害者の側と自分が地続きだということですよね。それは後味がいいはずがないです。

──その視点は、中立である気がしました。

社会が偏っているから、僕の視点が中立に見えちゃうんじゃないかな。『A』を上映をしたときも、時おり観客から「メディアは嘘ばっかり報道していたんですね。やっと真実を見て感動しました」みたいなことを言われることがありました。

嬉しいけれど言わなくちゃならない。作品は真実ではないし、ましてや中立でもない。あくまでも、僕の視点で描いたものだから、これは僕の真実だけどあなたの真実ではない。同じときに、同じ場所で誰かがカメラを回していたら、全然違う作品になったはずです。

『福田村事件』も、僕が思ったことを自分の視点で描いただけ。公平性や中立性は全然意識していません。

今回、映画公開に向けてたくさんのインタビューを受けていますが、何度かされて困ったのが「どんなメッセージを伝えたかったんですか?」という質問。映画を見た人によって感じ方は違うし、その全部が正解だと思っています。「100年前に起きた事件だけど、昔話ではないな」くらいに思ってくれれば十分です。

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──私たちは日々、多くのニュースを目にします。監督はどんな視点で捉えるようにしていますか?

自分の視点でいいんじゃないですか。僕は大学でも教えているので、学生から「どのメディアを信じればいいですか?」みたいな質問をされることがある。でも、情報って信じるものじゃないから、「まず信じるって言葉を使った時点で間違いだよ」と伝えています。

今日の取材だって、終わったあとに「森さんって意外と気さくだったね」と思う人もいれば、「やっぱり不愛想で怖かった」と思う人もいるかもしれない。その思いは絶対に記事に反映されます。映像の場合も、カメラワークや編集に作り手の思いは滲む。

そういう意味では、どんな情報も誰かの視点をフィルターにしているわけです。視点がない情報はありえない。あらゆる情報は信じるものではなく、ひとつの視点として受け取るものだと僕は思っています。

例えば沖縄の基地問題の場合、朝日新聞と産経新聞では論調が違いますね。なぜなら、それぞれの視点で書いているから。ただしここでいう視点は、“読者のニーズ”です。日本の新聞は定期購読がメインですから、読者のニーズを絞りやすい。逆に言えば、読者のニーズに支配される傾向が強い。

ニーズに応える形で誌面を作っていくと、産経新聞は「基地は必要」になるし、朝日新聞は「基地は必要ない」という論調になる。どっちも嘘ではないし、どっちが真実かという議論にも当てはまりません。

集団化することは回避できない人間の本能

──ネットニュースのコメント欄を読むと、メディアを批判する割に、ニュースを信じている人が多いという印象もあります。

最近はあまり見なくなったけど「マスゴミ」って言葉をネットで使う人いるじゃないですか。仮に日本のメディアがゴミのレベルならば、それは自分も含めて社会のレベルがゴミだということです。だって、メディアは社会のニーズに応えているわけだから。さっきの朝日新聞や産経新聞と同じように、みんな営利企業なので当たり前です。

映画でも同じことが言えると思います。僕は『福田村事件』の企画を大手の映画会社に持って行ったら、「別の企画ないですか」と言われました。その理由は、これは推測だけど、リスクが大きいと思われたことに加え、この企画では観客動員が期待できないと彼らが思ったから。

それは間違いじゃないです。だって映画も社会の合わせ鏡なわけですから。なんで日本の映画がこんな体たらくなのかというと、社会がそんな体たらくだからだと思います。

──監督は過去のインタビューで「日本は同調圧力が強い社会だから、世界で最もベストセラーが生まれやすい」とおっしゃっているのが印象的でした。

数量的な根拠はないけれど、外国のジャーナリストにそう言われました。でも指摘されたら確かに、「みんなが見るから私も見る」「みんなが読むから僕も読む」という衝動がとても強い国だな、と思います。

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──それでも監督が作品を作り続けるのは?

何よりも映画が好きだから。観ることも作ることも。これに尽きます。まあ無理やりに付け加えれば、100%絶望していないし、きっかけさえあれば、日本社会だって変わるかもしれないと思っているからです。

そのためには、やっぱり失敗体験から目を背けてはいけないと思います。『福田村事件』は自虐史観だと言われかねないけど、人間に置き換えればいいんですよ。失敗とか挫折とか失恋とかを全部忘れて、一流大学に合格したとか成功体験ばかり記憶している人とは口も利きたくないですよね。この国はそうなりかけていると思います。

──社会が変わるきっかけを投げ続けている?

んー、でもあくまで『福田村事件』はエンタメですから。もちろん、エンタメっておもしろおかしいものだけではありませんよね。いろんなエンタメがある中のひとつとしては、おもしろい作品になったと思います。

集団化することは人間の本能です。これは回避できませんし、すべての集団から離脱しようと思っても無理です。でも、集団でこんな間違いを犯した過去があるという意識を持つだけでも、ずいぶん違うと思っています。

関東大震災から100年目の劇映画『福田村事件』…「日本のメディアがゴミだと思うなら、それは社会もゴミだということ」ドキュメンタリー作家・森達也がそれでも日本に絶望しない理由

──監督の今後についてもお聞かせください。次の作品の構想は?

まだ内容は公にできませんが、1本ドキュメンタリーを作っています。コロナで中断しましたが、もう一度始動させようと、何人かで動いています。

あとはホラー映画も作りたいんです。びっくりとか恐怖って、人の心を揺り動かす基盤だと思っていて。映画の醍醐味はホラーだと思っているし、作る側の創意工夫もいろいろ試せるジャンルだと思っています。

──監督が好きなホラー映画は?

スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980)。別格です。お化けが怖いとかそういうことではなく、小説家を演じたジャック・ニコルソンが、タイプライターで「All work and no play makes Jack a dull boy」しか書いていなかったとわかった瞬間の、あの怖さ。

ああいうハイレベルなホラーを描きたいと思っています。僕がホラーを撮りたいと言っても、みんな本気にしてくれないですけどね(笑)。

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取材・文/松山梢
森達也氏撮影/石田壮一
劇中写真/©️「福田村事件」プロジェクト2023