地方ジムからの世界王者は戦後3人だけ。岡山のど田舎ジムから世界に挑むユーリ阿久井政悟…“かませ犬”として地元判定に泣いた会長の悲願
地方ジムからの世界王者は戦後3人だけ。岡山のど田舎ジムから世界に挑むユーリ阿久井政悟…“かませ犬”として地元判定に泣いた会長の悲願

歴代のボクシング世界王者は首都圏や都市部のジムに所属する選手が圧倒的に多く、地方ジム所属選手は世界挑戦すら難しいのが実状だ。そんななか、岡山県倉敷市にある小さなジムから世界王者が誕生しようとしている。

2024年1月23日に世界王座戦をひかえるその選手、ユーリ阿久井政悟と所属する「倉敷守安ボクシングジム」の半世紀の歴史を紐解く。(前後編の前編)

地方ジム所属選手として稀有な世界挑戦

9月26日、世界タイトルマッチの記者会見で、挑戦者のユーリ阿久井政悟が緊張で少し声を震わせながら言った。

「岡山のボクシングの道を、もっと自分が切り拓けたらなと思います」

「スポーツの地域格差」はさまざまな競技で課題とされているが、プロボクシングの世界も例外ではない。地方ジムの多くは指導者やスパーリング相手が慢性的に不足している。世界王者を輩出したジムの所在地は首都圏や大阪・名古屋かその隣接県が大半だ。それ以外の地方ジム所属の世界王者(JBC公認)は、戦後プロボクシングの70年以上の歴史で沖縄県の平仲明信、福岡県の越本隆志、熊本県の福原辰也の3名だけ。絶望的に少ない。

そもそも、地方ジムの選手が世界挑戦することさえ10年に1度あるかないか、というレベルである。

阿久井が所属する倉敷守安ボクシングジム所属は、岡山県倉敷市の国道沿いにある。3階建ての建物で、1階がジム、2階、3階は守安竜也会長の自宅である。少し歩けば、温暖な気候の岡山平野に敷かれた田んぼが広がる、ど田舎の「地方ジム」だ。現在会員数は50名程度で、うちプロボクサーは8人だという。

ジムを訪れたのは9月中旬、世界戦が公表された翌日だった。

阿久井は大事な試合が決まっているにもかかわらず、後輩がスパーリングをしているときは自分の練習を止め、「そこで手を出せ」「足を使え」など、リングの外からアドバイスを送っていた。

「僕はアマチュア時代から県外に遠征して、他のジムの選手がどういった練習をしているのか見る経験がありました。でも、守安ジムの後輩たちはそれがわからないですし、指導者も少ないジムなので、自分がサポートしています」(阿久井)

ジムの看板選手である阿久井が日本王者となったのは2020年。岡山県にあるジム所属のボクサーとしては38年ぶり、史上2人目の「快挙」だった。

本来ならここから、ボクサー・ユーリ阿久井政悟の来歴を紹介すべきだろう。しかし、彼の世界挑戦までの足跡は、所属する倉敷守安ボクシングジムと会長が辿ってきた隆盛と受難と屈辱の歴史と切り離すことはできない。



「地元で開催しとる自主興行は、よくてトントン。だいたいが100万円以上の赤字ですわ。でも選手を育てるには試合を組んだらんといかんですけえ」

守安ジムの守安会長はジム黎明期の1992年から自主興行をスタート。途中、休止期間はあったが、期待のホープである阿久井をサポートするために2016年に復活させた。

そもそも守安会長が自主興行を開始した理由は別にある。「自分と同じように地元判定で悔しい思いを選手に経験させたくない」という思いからだった。

地方ジムのかませ犬から「岡山の星」に

「今ではそんなことはないですが、当時は判定の贔屓がひどくて、名古屋や九州行ったら勝てんかったですよ」

1974年プロデビューの守安会長は、農協職員との兼業ボクサーで日本王者になった経歴を持つ。「岡山の星」として地元のヒーローとなったが、当時所属したジムは小さく、自主興行もなかった。現役時代の試合の大半は、アウェイのリングで不可解な判定で敗れることが多い“かませ犬”だったという。

「世界ランキング3位にまでなりましたが、当時の世界王者はアーロン・プライヤーという有名なチャンピオン。(国内でタイトル戦をするために)呼ぶには億単位のお金がかかったでしょう。地方ジムがそんな選手を呼ぶのは大変なことです。結局実現せず、4度目の防衛戦で負けて、それから1年後の1984年に引退しました」

その後、1987年5月、守安会長は倉敷市内に300万円をかけてジムをオープン。

このジム開きの数日前に見学に来た、体格のいい青年がジムの歴史を変えることとなる。

「会うなり、おっつぁん(守安会長)に、『おう、おめえプロになれ』て言われて。無茶言いよるなて」

その青年、阿久井一彦さんが振り返る。3年後の1990年、会長の言うとおり守安ジム所属のプロボクサー第1号となったこの一彦さんこそが、ユーリ阿久井政悟の父である。

23歳で守安ジムに入会した一彦さんは、柔道で鍛え上げた体力を武器に全日本選手権出場などアマチュアで輝かしい実績を残し、プロデビューする。

「じゃけど、ワシとしてはねえ、プロデビュー前のオーバーワークで調子崩されたと思うとるんよ」

一彦さんはプロデビュー後の自身のキャリアに、納得がいかないところがありそうだ。


「プロデビューの試合の1週間前にねえ、おっつぁん(会長)に『おえ、マスボクシングやるぞ』って言われて、思い切り首の後ろを殴られて、それで調子狂うたんよ。結局、試合は引き分けで試合後にオーバーワークが原因じゃなと思っておったら、そばでおっつぁんが『うーんやっぱり練習が足らんな』というて。それでワシはこりゃダメじゃと思うて、デビュー後は途中からおっつぁんの言うこと聞かんようになって…」

戦績では負け越したが勝ち取った金星

一彦さんは「会長にワシは潰されたんよ」と振り返る。かなり辛辣な言い方に聞こえるが、ふたりの間には36年以上の関係があり、第三者である筆者が言葉通りに真情を受け取っていいものか戸惑わされる。別のあるジムOBは、「ジム創設時からいる大先輩の一彦さんと守安会長の関係は、立ち入ることができない親子のような雰囲気があった」とも話していた。

1992年、守安会長は先述の通り自主興行「桃太郎ファイト」を起ち上げる。1回目の興行でメインイベントに出場させたのは、一彦さんだった。しかし東京から呼んだ日本ランカー相手のこの試合で、一彦さんは7R TKO負けを喫する。以降、一彦さんは勝ったり負けたりを繰り返している間に、有望な後輩たちに追い越されていく。

1990年代後半、守安ジムに所属するプロは最盛期で30名を超えた。日本ランキングに入る選手がぽつぽつと表れ、1998年にウルフ時光、2000年には藤田和典が東洋太平洋王者となった。「桃太郎ファイト」のメインはもはや一彦さんではなく、後輩たちが出場するようになっていた。

2001年、一彦さんは通算30戦13勝(3KO)15敗2分という生涯成績を残して引退する。一度も日本ランキングに入ることはなかった。

ただ、戦績では負け越したものの、面倒見がよく、ジムの後輩たちからは慕われていた。ある日、ジムの後輩が一彦さんに神妙な面持ちで、「お姉ちゃんを紹介したい」と相談を持ちかけたことがある。

そのとき紹介された女性が、のちに妻となる純子さんだった。1993年に結婚、1995年にユーリ阿久井政悟が生まれた。

今回のインタビューを終えると、一彦さんは「岡山駅まで送りますよ」と、筆者を車の助手席に乗せてくれた。車内で、引退してから8年後の2009年、中学2年になった息子の政悟を連れて守安ジムに顔を出したときの話をしてくれた。

守安会長は政悟を見るなり、笑顔で迎えたという。

「せやけど実のところワシの頭には、守安ジムの後輩が開設した県内の2つのジムも候補にあってね。おっつぁんにはもちろん言ってないけど、当初、坊主(政悟)をどこのジムに連れて行くか少し迷ったんよ」

本当にこの子を守安会長のそばに置いて、いいのだろうか。
厳しい練習でオーバーワークになり、ボクシングを嫌いになってしまわないだろうか。

「でも、いろいろ考えたけどやっぱりねえ。ワシはおっつぁんに恩義があるから……」

一彦さんはぽつりと言った。

#2へつづく

取材・撮影・文/田中雅大