
33年前の2月20日に福岡県で起きた女児誘拐殺人事件=「飯塚事件」。裁判途中から冤罪ではないかと言われ続けたこの事件を語ろうとすると、必ず栃木県の「足利事件」にも言及することになる。
警察の不可解な動きとDNA型鑑定
1992年2月20日、福岡県飯塚市で小学一年生の女の子二人(ともに7歳)が、朝、家を出たまま学校に現れず、捜索願が出された。翌日になって20キロ近く離れた山の中で、二人の遺体が発見された。
二人は首を絞められ、殴られた跡もあった。膣とその周辺から、犯人のものとみられる血痕が採取された。さらに翌日には現場から3キロほど離れた道路沿いで、ランドセルなどが見つかった。
この街では、この事件の3年あまり前にも小学一年生の女の子が行方不明になり、いまだに見つかっていなかった。
警察は大掛かりな捜査態勢を敷き、それによって遺体が早く発見され、捜査は進むかに見えたが、その後は順調には進まなかった。
二人の女の子が突然姿を消し、遺体はそこから20キロも離れたところで見つかった。
犯行に車が使われたことは、ほぼ間違いない。しかし、車に関して、まったく違う情報が錯綜していた。
事件の発生以前から、この地区内では、不審な白色の小型自動車がしばしば目撃されていた。路上に停めて、小さな女の子に声を掛けていたという。一方、事件当日、遺留品が発見された近くで、道路脇に紺色のワゴン車が停まっているのを見たという人がいた。
目撃者はその際、ワゴン車の後輪がダブルタイヤ(後輪だけ2輪ずつ装備されている)だったことを確認したという。
「紺色のワゴン車」の証言に捜査本部は刮目した。それは、警察が事件発生直後から目をつけていた人物の所有する車と、その特徴が完全に一致するからだ。
久間三千年氏(当時54歳)は3年前の女児失踪事件で、女の子を最後に見た人物として、警察に調べられていた。事件か事故かも分からないまま時は流れたが、警察は今回の事件が発生した直後から、正確にはこの3年あまりずっと、久間氏の身辺に目を光らせてきた。
そして、彼が所有している車は、紺色のワンボックスカー(ワゴン車の一類型)で、後輪はダブルタイヤだった。
事件発生の5日後に、久間氏は最初の事情聴取を受けている。妻子とともにこの街に住み、当時は定職についていなかった。
捜査本部はその後、鑑定試料として久間氏の毛髪を入手し、遺体から採取した犯人の血液痕とともに科警研(科学警察研究所)に送った。
間もなく、「一致した」との鑑定結果が届いたはずである。しかし、その後2年以上、警察は久間氏を逮捕せず、泳がせている。さらに、この間に別の研究機関にDNA型鑑定を依頼している。なぜ、そんなことをしたのか。その理由を探るために、同じDNA型鑑定を使ったもうひとつの事件、足利事件まで時を遡ることにする。
「数百人に一人の確率」が一致
1980年代に、イギリス、アメリカ、日本などでDNA型鑑定を犯罪捜査に利用する試みが始まり、その成果を競い合っていた。そんな中で、1990年5月に足利事件(栃木県足利市)が発生した。
一時は迷宮入りも囁かれたが、DNA型鑑定によって犯人が割り出されたとして、大きなニュースとなった。このとき、科警研が行ったDNA型鑑定法がMCT118法である。
足利事件も、幼い女の子が何者かに連れ去られ、殺害された事件である。遺体の発見現場のすぐ横を流れる川の中から、女の子の衣類が見つかり、そこに犯人の精液が付着していた。
容疑者として目を付けられたS氏については、警察が一年間必死に張り込みを続けたが、別件逮捕の糸口さえ見つからず、捜査は難航した。
現場から採取した精液と、S氏の精液(ゴミで捨てられたティッシュペーパーから採取した)を科警研に送った。科学警察を標榜する警察庁は、この時期、DNA型鑑定の導入に熱心だった。そして鑑定の結果は警察庁を大いに喜ばせるものだった。
MCT118法によれば、犯人もS氏も、そのDNA型は16-26型。同じ型は数百人に一人の確率だという。
1991年12月、「DNA鑑定で一致」の記事が全国紙の一面に掲載されたその日の朝、S氏は初めて警察に呼ばれ、任意の取り調べを受けた。警察署の前には多くの人が集まり、その日のうちにS氏は自白に追い込まれた。
こうしてDNA型鑑定は華々しくマスメディアに登場したのだが、やがて、その綻びが露呈する。1992年12月、第一回のDNA 多型研究会が東京大学で開かれた。ここで、信州大学の研究チームが「科警研の行なっているMCT118法では正しい鑑定結果は出ない」という論文を公表した。
事件の中心的な証拠に大きな間違いが見つかったのだ。
科警研が間違いを認める論文を公表したのは一審判決の直後だった。1991年に行なわれた科警研の鑑定法では正確な型判定はできないことを、自ら認めた。抽出したDNAの鑑定数値(16-26)を測定するための当時のマーカー(物差し)が大雑把すぎて使い物にならなかったのである。
ただし、技術はまさに日進月歩で、この1993年の段階では、すでに新しいマーカーが導入されており、再鑑定をすれば、正しい測定値を得ることは可能であった。
ところが、科警研はここで開き直り、「古い鑑定結果は正確ではなかったが、そこに、2-4を足せば、新しいマーカーでの鑑定結果とだいたい同じになる」として、再鑑定をしないまま、犯人とS氏の「16-26型」を共に「18-30型」に訂正して「両者は一致する」と強弁し続けた。
これは科学ではない。数値が1違えば別人である。こんないい加減な主張が通るはずはないのだが、足利事件の控訴審の裁判官はこれを認めてしまった。
でたらめな鑑定の連鎖
飯塚事件に話を戻す。捜査本部が足利事件の後を追うように科警研にMCT118法による鑑定を依頼したのは、1992年の夏ごろ。科警研から届いた鑑定結果では、被疑者も犯人も「16-26型」と判定された。これは足利事件と全く同じである。
合致するのは数百人に一人しかいないという鑑定法において、時空のかけ離れた二つの事件現場の試料がすべて同じ型であるなどということがあり得るのか。何かおかしい。
そして、その年の12月にはこの鑑定法の欠陥が東京の学会で公にされた。そのような鑑定を証拠として、逮捕に踏み切れるはずがない。当時、警察がほかの研究機関(=帝京大医学部)にミトコンドリア法など、別のDNA型鑑定を依頼していたのは、むしろ当然だったともいえる。
ところが、福岡県警はその後、1994年9月に久間氏を逮捕。起訴することになるのだが、そのとき裁判で検察が証拠として提出したのは、MCT118法による鑑定結果だけだった。
なぜか。帝京大での鑑定では、久間氏のDNAは、採取した犯人の試料(血液痕)と一致しなかったのである。この鑑定が正しければ、久間氏は無実だということになる。
このため、検察は、MCT118法の脆弱さは知りつつも、この鑑定結果を前面に押し立て、一方、被告人に有利な証拠となる帝京大の鑑定を隠して公判に臨んだのである。
久間氏の逮捕後、捜査本部はすぐに、令状によって久間氏の自宅の庭を掘り返している。
1995年から始まった第一審で、検察はMCT118法の他にDNA型鑑定があることを伏せていたが、弁護人の強い追及で仕方なく、その存在を認めた。そして、ミトコンドリア法などでの鑑定では久間氏のDNAは一致しなかったことが、はじめて明らかになった。
形勢は逆転したかに見えた。だが、この鑑定を行なった大学教授が、「試料が少なかった」と、信ぴょう性を自ら貶めるような証言をした。これが検察を救った。
のちにこの教授は、今になって言えるが、と前置きしながら、公判前に警察庁幹部が法医学教室にやってきて「科警研とそちらの鑑定は矛盾しないと法廷で証言してくれ。科警研のDNA鑑定は巨額の税金を投入しているので、間違っていたというのでは、困るのだ」と言われていたことを雑誌のインタビューで答えている。
1999年9月、福岡地裁は、MCT118法に軍配を上げ、久間氏に「死刑」を言い渡した。その後、2001年に控訴棄却、2006年に上告が棄却されて、久間氏の死刑が確定した。
再鑑定への道
飯塚事件の裁判と歩調を合わせるように、足利事件の裁判も進んだ。1993年から始まった控訴審で、科警研の技官が証人として出廷し、MCT118法について、正確ではないことを認めた。
しかし、中心的な存在だった女性技官は、追及する弁護人に対して開き直り、最後には「当時としては当然だったし、しようがなかったことだと思っております」と答えた。
彼らには、不正確な鑑定によって無辜の人を罪に陥れる可能性がある、という認識が完全に欠如していた。しかし、このやり取りを聞いても裁判官はMCT118 法に疑念を抱かず、1996年に控訴を棄却した。
裁判所に絶望した弁護団は、自分たちで再鑑定をすることにした。拘置所のS氏から毛髪を郵送で受け取り、日本大学医学部の押田茂實教授の手によって、新しいマーカーでのMCT118法による鑑定が実施された。
科警研の主張が「18-30型」であったのに対し、このとき出てきた数値は、「18-29型」だった。押田教授は「1つ違えば別人です。これは大変なことになったと思いました」と語った。
当時テレビ局でこの事件を追っていた私は、科警研の検査写真も、押田教授の検査写真も見ているが、雲泥の差であった。押田鑑定では、1目盛りごとに、くっきり見えたのに対し、科警研の写真では、16のところにも、26のところにも何も写っていなかった。
写真を見れば、どちらの鑑定が正確であるかは一目瞭然であった。押田教授の鑑定写真が、この事件が冤罪であることを、私に確信させてくれた。
だが、この押田教授の鑑定結果を見ても、裁判所は動こうとしなかった。2000年7月に最高裁が上告を棄却して、S氏の無期懲役が確定。さらに再審請求審でも、2008年2月、宇都宮地裁は「押田教授が鑑定したものが、本当にS氏の毛髪かどうか、分からない」として、請求を棄却した。
しかし、これにはマスメディアからも異論が相次いだ。世論に押されるような形で、2008年12月に東京高裁が再鑑定を決定した。そして、2009年4月、その結果が公表された。
S氏は「18-29型」、犯人(現場に遺留された精液)は「18-24型」、全くの別人だった。科警研の間違いを暴くのに18年の歳月を要した。検察の主張を鵜呑みにし続けた裁判所の責任は重い。そして、これは久間氏にとっても遅すぎた。この半年前に久間氏の死刑が執行されていた。
そして死刑執行…
2008年10月28日、久間三千年氏の死刑が執行された。「足利事件で再鑑定へ」の新聞記事が出て、10日後のことだった。再鑑定とは、これまで有罪の根拠となっていたDNA型鑑定に大きな問題があることを裁判所が認識した、ということである。
そうであれば、同じ鑑定法で死刑判決を受けた飯塚事件にも当然波及することになる。法務省も最高裁も検察も、MCT118法の欠陥についてはすでに情報を得ていたはずだ。なぜ、久間氏の刑の執行を急いだのか。
死刑確定から2年での執行は、他の確定囚に比べて早すぎる。久間氏の弁護団は、このとき、再審請求の準備中だった。請求を申し立てた確定囚については、(例外もあるが)刑の執行は行なわれない。弁護団は「油断があった」と悔やんだ。
2009年の春、私は久間氏の自宅を訪ねた。何日か断られた後、居間に案内されて、遺影に手を合わせた。和服姿で現れた夫人には、撮影もインタビューも丁重に断られたが、帰り際、再審に向けて準備を進めていると、きっぱりとした口調で語ってくれた。
2009年10月、久間氏の妻によって死後再審が申し立てられた。私は「なぜ久間氏の死刑執行を早めたのか」という質問状を、森英介法務大臣(当時)に宛てて出したが、法務省刑事局から、個別の事案には答えない、という紋切り型の返事があるのみであった。
これらにつき、法務省の担当者からは、私が担当していたテレビ番組の放送内容を確認したいと事前にも電話があり、神経質になっているのがよくわかった。番組では無味乾燥な内容をそのまま放送した。
再審請求のその後
弁護団は、当初、足利事件と同様、再鑑定に漕ぎつければ、展望が開けると考えた。しかし、この再審請求審では再鑑定がもはやできないことが明らかになった。なぜなら、科警研が鑑定のための試料(血液や体液など)を使い切ってしまったというのである。
本当か嘘かは分からない。しかし、新たな鑑定によって、請求人(久間氏)と犯人の本当のDNA型を調べることはもうできない。科警研は「鑑定試料は次の鑑定のために、必ず残す」という科学者の最低の倫理をかなぐり捨て、足利事件の二の舞を避けた、そう見られても仕方がない。
試料消失後の、審理の進み具合を簡単に記しておく。
2014年3月、福岡地裁は、「MCT118法がなくても他の状況証拠によって有罪の認定は覆らない」として請求を棄却した。
ここで挙げられた状況証拠とは、ワンボックスカーの目撃証言、久間氏の車の後部座席から検出されたと検察が主張する血液痕と尿痕、女の子のスカートについていた繊維痕が後部座席の繊維痕と一致する可能性が高いとする鑑定、などである。
一方、2021年からの第二次再審請求審で、弁護団が新証拠として提出したのが、事件当日、二人の女の子を乗せた車を見たという目撃証言である。
目撃者の男性は、現場に近い道路で、速度を落として走っている白い軽自動車を追い越そうとした際、後部座席に二人の女の子が乗っているのを見たという。運転していたのは30代くらいの男で坊主頭だったという。
後に事件を知り、警察に知らせたところ、刑事が来てメモを取りながら話を聞いて帰ったが、その後は一切連絡がないということだ。運転していた男は報道されている久間氏とは全くの別人だと言う。
この地区では、事件発生以前から、街の中で不審な白い小型車がしばしば目撃されていた。それらの当時の情況と符合する目撃談であり、重要な新証言だとみられたが、裁判官は信用できないとして退け、2024年6月、請求を棄却した。
現在、福岡高裁で即時抗告審が続いている。
文/里見繁