西武ライオンズ1980年代後半の黄金時代を築いた最強の布陣とは? 「どこからでも盗塁が狙えた」打線の脅威
西武ライオンズ1980年代後半の黄金時代を築いた最強の布陣とは? 「どこからでも盗塁が狙えた」打線の脅威

1982年にドラフト1位で西武へ入団した伊東勤氏は、広岡達郎・森祇晶(まさあき)両監督のもと、幾度となくリーグ優勝、日本一を経験した。食事制限や規律などの厳しさで知られた広岡イズムを土台に森監督が引き継いだ西武ライオンズは黄金期を築いた。

その強さの秘訣は9人のうち7人が盗塁を狙えたことにあるという。

書籍『黄金時代のつくり方』より一部を抜粋・再構成しチーム作りの裏側を明らかにする。

私にとっての西武ライオンズ黄金時代

西武ライオンズの黄金時代とは、いつを指すのか。

一般的には、広岡達郎監督の4年間(1982~1985年)を第一次黄金期、森祇晶監督の9年間(1986年~1994年)を第二次黄金期として、合わせて13年間を指すことが多いのかもしれません。

第一次黄金期の広岡監督時代は4年間でリーグ優勝3回、日本一2回。第二次黄金期の森監督時代は9年間でリーグ優勝8回、日本一6回。まさに黄金期と呼ぶにふさわしい期間です。

ただ、広岡さん時代の優勝は、まだ寄せ集めチームで、ベテランの力も大いに借りていました。その後、広岡さんが築いた土台、厳しい練習で若手が力をつけて、主力になっていったあたりからが、本当に強くなったと思います。

その中でやっていた私の感覚では、「黄金期の中の黄金期」というのは、森監督になって2年目、1987年あたりからだと思います。

前年までは、秋山幸二は主にサードを守っていましたが、この年からセンターにコンバートされました。すると、俊足を生かした広い守備範囲で初のゴールデングラブ賞に選ばれ、攻撃面でも過去最多の43本でホームラン王を獲得、盗塁も前年の21から38へと大きく伸ばし、過去最多を更新しました。

ショートを守っていた石毛宏典さんがサードに回り、ショートに田辺徳雄が入りました。

セカンドの辻発彦さん、ファースト清原和博からなる内野陣は、守備力も非常に高いものがありました。

時期により、もちろんメンバーや打順が変わりましたが、これがひとつ代表的なオーダーでした。

どこからでも盗塁できる

特徴的なのは、清原、デストラーデ以外は「足」があること。エンドランを仕掛けるのに十分なスピードがあるだけでなく、それぞれが単独スチールを仕掛けることもできました。

もちろん、それは単純に足が速いからというだけでなく、チームとして準備をしていたからできたことです。

特に森さんの野球では、リスクを負って盗塁を仕掛けるより、送りバントで確実にスコアリングポジションに走者を進める戦術が多用されました。そういう意味では、まさに「ここ一番」というところで盗むのが西武の盗塁だったと思います。

先頭打者が塁に出て、バントで送れば一死二塁です。でも、これが一死三塁にできるのならそれに越したことはありません。そういうチャンスはないかと、いつも狙っているのが西武流で、盗塁はそのときに活用する戦術のひとつでした。

たとえば、試合終盤で先頭打者だった2番平野さんがフォアボールで出塁したとします。相手チームの監督にしてみれば、先頭打者のフォアボールほど嫌な予感に襲われるものはありません。昔から、先頭打者へのフォアボールは得点になりやすいと言われ続けています。

そこでピッチャーを代えるケースもけっこうあります。先頭打者へのフォアボールで焦ってしまったピッチャーがガタガタに崩れることも多いので、ひとつ流れを断ち切ろうという考えです。

バッターは3番秋山なので、バントはありませんが、相手ピッチャーにしてみれば、打ち取るのが難しいバッターです。失投すれば2ランホームランを叩き込まれてしまいます。できることならダブルプレーで……と、いろいろと神経を使います。

その初球、代わったばかりのピッチャーも、それをリードするキャッチャーも、一塁走者の盗塁にまで神経が回らなくなっているんじゃないか。西武のランナーは、いつでもそうやって相手の隙を狙っていました。

今の例で言えば、初球に走ることに意味があるのであって、2球目に走ったのではダメなのです。

どういうことかというと、この初球、相手バッテリーは打者にばかり気を取られて、一塁走者への警戒が薄くなっていました。その1球を見た上で、じゃあ2球目行けるんじゃないかと思っても、それに気づくのは自分たちだけではありません。

相手ベンチもそれを見て、ちゃんとランナーを警戒しろ、モーションが甘いからクイックで投げろと指示が出てしまいます。

つまり、選手だけでなく、ベンチも含めて、エアポケットに入るような瞬間、その隙をつかなければ意味がない。

だから、それをいつも狙っていたというわけです。

ウォーミングアップから盗塁を意識

そうなると、その一瞬、確実にセーフになるスタートができるか、できないかが重要になってきます。

当時の西武ライオンズは、ウォーミングアップでさえ、ただの体慣らしではなく、プレーを意識してやっていました。

高知県春野のキャンプでは、投手と野手に分かれてウォーミングアップをするのですが、メイン球場の隣に、芝のサブグラウンドがあって、そこで30メートルのタイムトライアルから始まるんです。

今はどちらかというとすべて個人任せで、昔よりも早く出てきて「アーリーワーク」をする選手もいたり、体を動かす時間も増えているようですが、当時のライオンズはノルマというか強制でしたね。「今日は30メートルを10本測るぞ」みたいな感じでした。

今はそういう練習はまずやらないでしょうね。トレーニングコーチとかが非常に工夫をして、どこの筋肉をどのように鍛えるといった意味で、目的を持ってトレーニングメニューを考えています。

当時の西武のメニューは、野球の動き、プレーにつながるという、別の意味で目的を持ったものだったと思います。

ダッシュやフットワークの練習も、スタートは盗塁を意識した形でした。できるだけ試合をイメージして練習をするというのが、貫かれていました。

盗塁に限らず、打撃練習でも、必ずケースを想定した練習が組み込まれていて、バント練習にせよ、進塁打の練習にせよ、ただやるのではなく、いかに今日の試合でサインが出たときをイメージしてやるかに重きが置かれていました。

しかも、こうしたウォーミングアップは、キャンプ期間中だけやって終わりではなく、シーズンが始まっても試合前の練習で継続的に行われていました。

写真/shutterstock

黄金時代のつくり方 - あの頃の西武はなぜ強かったのか

伊東勤
西武ライオンズ1980年代後半の黄金時代を築いた最強の布陣とは? 「どこからでも盗塁が狙えた」打線の脅威
黄金時代のつくり方 - あの頃の西武はなぜ強かったのか
2025/2/101,045円(税込)192ページISBN: 978-4847067136

80~90年代、「最強軍団」と称された
黄金時代の西武ライオンズで正捕手を務めた著者が、直に見てきたチームが強くなっていく過程を語る一冊。

・今となっては感謝しきりの「広岡管理野球」
・捕手としての「本当の師匠」は誰なのか
・他チームの監督になって初めて受けた衝撃

など、プロ野球ファン必読エピソードが多数!

監督としても西武を日本一に導いた後、ロッテや中日など他チームでも監督・コーチを務めたことで見えてきた「あの頃の西武」の強さが今、明らかに。

編集部おすすめ