
幼いころから集団行動が苦手だった石尾大輔さん(44)は、中学3年のときいじめを受けて不眠と幻聴がひどくなり、統合失調症と診断された。大学を卒業したが就活もできず、10年以上ひきこもった。
人生は何が幸いするかわからない
震災当日、何も持たずに家を飛び出した石尾さんが、物が散乱した家の中から携帯電話を見つけ出したのは1週間後だ。ひきこもりの支援活動をしている林昌則さん(62)から電話をもらったことで、大きな一歩を踏み出す。
林さんは「KHJいしかわ『いまここ親の会』」代表をしており、石川県加賀市でひきこもり当事者向けのシェアハウスを運営している。
実は、震災の1年ほど前にも、林さんに「シェアハウスに来ないか」と声をかけてもらったのだが、そのときは家を出る勇気がなくて断ったのだという。
いじめられたトラウマのある小中学校に開設された避難所には「死んでも行きたくなかった」という石尾さん。車中泊を1週間続けていたが心身の疲労は限界。能登から逃げ出すようで後ろめたさはあったが、林さんの勧めで家族と一緒に能登を出ることに。
金沢に避難して祖母、両親、弟はアパートに住むことになったが、石尾さんは激痛の走る左足の治療のため福井県の病院に入院。骨折とわかり手術とリハビリをして、4月からシェアハウスで暮らし始めた。
「新年を祝っていたのに、何でこんなことが起こるんだ、もう神も仏もあったもんかって思いましたよ。でもね、震災のおかげと言ったら不謹慎かもしれませんが、僕の場合、震災をきっかけに、大きく人生がよくなったという部分はあるんですよ。
ひきこもる部屋が壊れてダメになったんで、選択としては出るしかなかったから。
もし、地震で家が壊れていなかったらと聞くと、石尾さんは「今も家にいました。100パーセント、いましたね」と即答する。
「ひきこもっているときも、外の世界への憧れはあったんですよ。でも、いざ出てみたら、すぐ疲れてクタクタになってダメだと思って、うちに帰ってひきこもっちゃう。その繰り返しだったので。
正直言うと、ここに来たときも不安で仕方なかったですよ。どうやってこれから生きていくのかとか、ほんと恐怖でしかなかったです」
両親が生きている間に自立した姿を見せられた
シェアハウスではこれまで13年で34人の元ひきこもり当事者が暮らしてきた。長く暮らす人もいるし、次の居場所を見つけて出ていく人もいる。
今の住人は男性3人だ。石尾さんはシェアハウス2階の6畳間で生活をしながら、林さんが営む便利屋で働いている。最初の仕事は、掃除だった。
「仕事っていうのは地獄の苦しみしかないもんだと勝手に思っていたんです。だけど、あーだこーだ言わずに、体を動かして働いてみると楽しかった。
それに給料ももらえて、自分の好きな本とか骨とう品も買えるし。“物欲”って、よくないことのように言う人もいますが、僕は好きな物で満たされたいという欲があるから頑張れる。それが働く原動力にもなっています」
林さんによると、ゴミ屋敷の清掃の依頼が多いが、シェアハウスの住人や卒業生に声をかけても嫌がる人が多い。それなのに石尾さんは喜んで行ってくれるので助かっているという。石尾さんに理由を聞くと、こともなげに答える。
「もともと物がいっぱいで汚ねえ部屋に住んでたんで、免疫がついちゃった(笑)。人によっちゃ、ゴミ屋敷の臭いだけで吐きそうになるけど、僕はそれがないんで。ほんとにね、何が幸いするかわからない。もしかしたら、人生の楽しさって、そういうことかもしれないですよね」
石尾さんは初めて稼いだお金で、祖母に松前漬け、父親にウイスキーをプレゼントして、母親には少しお金を渡したという。
「そういうことは一生できないと思われていたんで、みんな喜んでましたね。両親が生きている間に家から出て、なんとか自立して生活する姿を見せられたのがよかった。お金を稼げるようになったことよりも、そっちの方が僕の中では大きいです。
地震で亡くなった方もいるので、自分だけこんなに幸せでいいのかなと思うくらい、幸せですよ。林さんがいなかったら、今の人生はなかったです。ほんと感謝しかないです」
長年苦しんだ症状が劇的に改善
昔の石尾さんを知る人に言わせると、ひきこもっていたころは話し方もたどたどしかったそうだ。15歳で統合失調症と診断されて以来、不眠や「謎の倦怠感」に長い間苦しんできたが、今は元気そうだし話もとてもスムーズだ。
どのようにして回復したのかと聞くと、2、3年前に症状が劇的に改善したのだという。
それまで石尾さんは金沢の病院の精神科に通院していたのだが、遠くて通うのが大変なこともあり、地元の珠洲市の病院で診てもらった。そこで心理テストを受けると、こう言われた。
「あなたは統合失調症よりも、発達障害のASD(自閉スペクトラム症)の方が強く出てますね」
そして、新しく処方された薬を飲むと、よく効いたのだと話す。
「まだ若い先生だけど腕がすごくよかったんですね。それまでは規定量の薬を飲んでも眠れなかったのに、今は飲んだ直後に眠れるし。
また、発達障害だと診断されたことで、気持ちにも変化があった。
「僕の部屋を見ていただくとわかると思うんですが、やたらこだわりが強くて、自分の好きなものを、バーッて集める癖があって。お金に余裕がなくても買っちゃうから、マヨネーズご飯をよく食べています(笑)。
それに、人がカチンとするようなことをパッと言っちゃう。悪気もないし陥れようという気持ちもないのに、相手を怒らせちゃう。大学時代に『そういう言い方はよくない』と教えてくれる友だちができたんで、失敗を重ねて改善はできたんですよ。ほんのちょっとずつですけど(笑)。
こだわりの強さも人を怒らせちゃうのも、わざとじゃなかったんだと医学的に証明されてホッとしました。それまではなんかやらかすたびに、何でこんなことをするんだと自分を責めていたんで」
当時はまだ発達障害という言葉すら知られていなかったが、小中学校でいじめられたのも発達障害の特性が関係していたのかもしれない。「謎の倦怠感」も、それまで処方されていた薬が合わなかった可能性がある。石尾さんもそれを十分わかった上で、前を向こうとしているのだ。
いじめるのも人間、救ってくれたのも人間
石尾さんはひきこもりを脱してから、地元のテレビ局や新聞の取材を受けたり、支援団体などに呼ばれて、震災とひきこもりの体験を話したりしている。
「いじめとかひどいことをするのも人間ですが、救ってくれたのも人間なんですよね。今苦しんでいる人たちには、いい人間はたくさんいるし、怖がらなくてもいいと伝えたいです。
僕だって、普通に就職して、結婚して、子どもを持ちたかった。でも、それはできない代わりに、自分の体験を社会に伝えることで、自分を保てる部分があるんです。話すことで一番救われているのは僕自身なんです」
石尾さんがシェアハウスで暮らし始めて1年経った。「今の生活は楽しいし、ずっとここで頑張りたい」と言うほど馴染んでいるが、今でもたまに能登の夢を見るそうだ。
夢の中ではみんな笑顔で、自然豊かで平穏な田舎の風景がどこまでも広がっている。家もインフラも壊れたままで集落の再建は難しいが、「やっぱり人生の最後は珠洲で迎えたい」と故郷に思いをはせている。
取材・文/萩原絹代