マクドナルド日本1号店のお客が来ない日々…「行儀が悪い」と言われたハンバーガーの立ち食いを「オシャレ」に変えた20代店長の奮闘
マクドナルド日本1号店のお客が来ない日々…「行儀が悪い」と言われたハンバーガーの立ち食いを「オシャレ」に変えた20代店長の奮闘

いまや世界的ハンバーガーチェーンであるマクドナルド日本第一号店は1971年、東京の老舗百貨店・銀座三越の1階にオープンした。そのとき店長を務め山迫毅さん(当時29歳)だ。

「味も見た目も“未知との遭遇”だった」というハンバーガーは当初まったくといっていいほど人気が出なかったという。
 

ハンバーガーに惚れ込んだ男性の苦悩の日々を『「まさか」の人生』より一部抜粋・再構成してお届けする。

20代店長の悩み

誰もが一度は、かぶりついたことがあるだろう。関東では「マック」、関西では「マクド」として愛されるマクドナルドのハンバーガー。米国から上陸したのは1971年7月だった。

「東京のど真ん中から日本の食文化を変える」。そんな願いを込め、1号店は東京の老舗百貨店・銀座三越の1階にオープンした。店長だった山迫毅さん(当時29歳)は焦っていた。

思うように客足が伸びない。1時間誰も来ない日もあった。わずか45平方メートルの店舗には座席がなく、店先で立って食べるか、持ち帰るしかない。立ち食いは今よりも「行儀が悪い」とされていた時代。雨が降ると、開店休業状態になった。

てるてる坊主をつるし、晴天を願った。

間もなく、大人の街に若者が押し寄せ始める。目当ては80円のハンバーガー。「救世主が現れたんですよ」。それは、思わぬ人たちだった。

マクドナルドの快進撃の始まりは、よく晴れた夏の日曜日だった。1号店が営業を始めて数週間後の1971年8月。山迫さんは今も、その光景が忘れられない。

店の前に現れた外国人たちが、黄色の「Mマーク」の看板を指さし、興奮した様子で口々に叫ぶ。「オーマイゴッド」。50~60人はいただろう。そのまま店内になだれ込み、英語で次々と商品を注文していく。


次に見せた行動に目を見張った。目の前の「銀座通り」に座り込み、ハンバーガーにかぶりつく。コーラ片手に、歩きながら食べる人もいた。「行儀は良くないんだけど、本当にうまそうに食うんだよ」

銀座通りでは、1年前から日曜日と祝日の「歩行者天国」が始まり、多くの人が行き交っていた。「あの姿を見て、みんな格好良いと思ったんだろうな」。若者たちが次々と店に来た。

きっかけを作った外国人の集団は、静岡県で行われたボーイスカウトの世界大会の参加者。制服姿で立ち寄った銀座で、マクドナルドがあることに驚き、慣れ親しんだ味を求めてやってきたのだろう。

この日を境に、若者や女性の来店が一気に増える。店先の陰に隠れて食べる姿はなくなった。手づかみで頬張るのが「おしゃれ」になり、誰もが堂々と立ち食いを始めた。

オープンから待ち望んだ光景だった。
初日の売り上げは約40万円で、目標の100万円に遠く及ばなかった。酔っ払いから「肉まんを売っているの」と聞かれ、認知度の低さを思い知らされた日もあった。

「あの人たちは、天から降ってきたようなビッグプレゼントだった。俺はついていると思ったよ」

味も見た目も「未知との遭遇」

振り返れば、ハンバーガーに縁のある人生だった。東京都町田市の私立中学で寮生活を送っていた時、所属する卓球部が、相模原市にあった在日米軍施設「キャンプ淵野辺」での大会に招かれた。

試合後、食堂に山のように積まれた肉が運ばれてきた。隣の米兵がパンに挟んで食べている。まねしてかぶりつく。「何だこれは」。思わず声を上げ、仲間と顔を見合わせた。

「香ばしいにおいと味が押し寄せ、口の中でとろけた。食べ物の名前はもちろん、何の肉なのかもわからなかった。未知との遭遇だった」

青山学院大学を卒業後、トヨタ系の自動車販売会社に就職した。

そこで出会った友人に「繊維の貿易を手がけよう。男ならロマンを求めようぜ」と誘われ、会社を辞めた。渡ったのは、米国だった。

「安くておいしい食べ物がある」。ロサンゼルスで友人に連れられ、店に入った。注文したのはハンバーガー。かぶりつくと中学時代の記憶がよみがえった。「脳が味を覚えていたんだろうね。うまくて感動したよ」。店の看板を見た。マクドナルドと書かれていた。

仕事は暗礁に乗り上げていた。

帰国するしか道はない。ちょうど1970年の大阪万博を控えていた。メキシコのパビリオンで、案内役のアルバイトとして働き、食いつなぐ。終わると無職になった。

働き先のあてはない。ある朝、自宅で新聞を読んでいると、見覚えのある「Mマーク」が目に留まった。日本マクドナルドが事業を始めるにあたり、店長ら幹部社員を募集しているという求人広告だった。

あの味を思い出し、胸が高鳴った。「赤い糸なのかもしれない」。だが、英語と論文の試験会場で落選を覚悟する。数百人が集まっていた。手応えはなかったが、面接も突破。
10人ほどの合格者の一人に選ばれた時、29歳になっていた。

開店初日に訪れた由美かおるさん

入社したのは、1号店が営業を始める1か月前の71年6月。すぐに研修が始まった。場所は、東京都大田区に会社が開設した訓練施設「ハンバーガー大学」。店で使う調理機器がそろえられていた。

創業した藤田田(でん)社長の言葉からは、事業にかける思いが伝わってきた。「日本では、新しい外来文化の流行は銀座から始まる」と、1号店の場所にこだわった理由を説明。日本人向けに味付けを変えるべきだとの意見には、「一切変えたらあかん。本物を食べさせるんや」と反対した。

その社長から銀座店の店長の辞令を受け、驚いた。「私でいいのか。大丈夫かな」

オープンには難題が待ち受けていた。1階を間借りする銀座三越は月曜日が定休日。改装にかけられるのは、日曜日に店が閉まってから、次に開店する火曜日の朝までのわずか39時間だった。

前例のない工事のヒントになったのは、演劇などで短い幕あいに舞台装置を素早く交換する大道具の動き。工事に携わる70人は、別の場所で実際に店舗を組み立てては壊すという予行演習を3回も繰り返した。

それでもアクシデントが起きる。「ガシャーン」。開店前日の深夜、「Mマーク」の看板が落ちて壊れた。あとで開店予定だった店舗の看板を持ち込み、何とか開店時間に間に合った。
ほぼ徹夜で迎えたからなのか、初日の記憶はあまりない。

俳優の由美かおるさんが訪れたことも気付かなかった。由美さんは初めて見る食べ物を手にとると、まじまじと見つめてから口に運んだ。

「ジューシーでおいしかった。今でも小腹がすいた時にいただいていますよ」と笑顔で語る。

10分ルールへの疑問

店を切り盛りする中で、山迫さんには納得できないルールがあった。「作って10分過ぎた商品は捨てる」というマニュアルの規定。客を待たせないよう、完成したハンバーガーを店頭に並べて販売していた。

「食べられるのにもったいない」。米国の本社から来ていた社員に訴えると、一蹴された。「これがマクドナルドのやり方だ」。店長としての甘さを突きつけられた気がした。

廃棄を減らし、利益を上げるにはどうしたらいいか──。曜日や天候、時間帯から客足を予想。周辺のイベント情報も集めるようになった。「マニュアルにない工夫の大切さを知った」

店のにぎわいは、新たな火種を生んだ。「見苦しいわよ」。銀座三越に顧客から、立ち食いの苦情が寄せられる。「放っておくとまずい」。歩行者天国の日は、座って食べられるよう、道路にイスやパラソルを設置した。

昼過ぎになると、三越の担当部署や近くの交番に足を運び、アップルパイとコーヒーを差し入れた。ポイ捨てを防ごうと、数十個のゴミ箱を路上に置き、清掃専門のスタッフも20人雇った。「摩擦が生じないよう必死だった」

アルバイトだった市東(しとう)宗男さんは「山迫さんは100人以上いたスタッフの名前を全て覚えていた。調理、接客、事務と何でも完璧にこなすスーパーマンだった」と話す。銀座店は72年10月8日、一日の売り上げが222万1160円に達し、全世界の店舗の新記録を樹立した。市東さんは「一日中、パティ(肉)を焼き続けた。お祭り騒ぎだった」と懐かしむ。

この歴史的な日に山迫さんは立ち会えなかった。その半年ほど前、ハンバーガー大学への転勤を命じられた。増え続ける店舗に送り込む社員の育成が役割だった。

「教えられるのは自分しかいない」。記憶に残りやすいよう、映像を使った研修を取り入れた。店舗実習で、作り方を実践して見せた。「失敗も成功も、自分の経験の全てを伝えたいと思った」と振り返る。

学長になって伝えたのは、笑顔の大切さ。自分が入社直後の研修で言われた時はピンとこなかったが、現場で痛感した。「笑顔が出るほど余裕を持たないと、いい仕事はできない」

1号店から始まったその伝統は、脈々と受け継がれた。80年代に大阪のスタッフの発案で、「スマイル0円」としてメニューに加わり、マクドナルドの代名詞になった。

「ご愛顧いただき、ありがとうございました」。銀座店は84年11月、最後の営業日を迎えた。集まった人から拍手が湧き起こる。山迫さんも駆けつけていた。「一つの時代が終わった。本当に寂しかった」

閉店の理由は、三越側との契約の終了だった。周辺の店などが、客の立ち食いやゴミのポイ捨てを問題視。「街の美観を傷つける」との声が上がっていた。オープンから13年、銀座に新風を吹き込んだ店は姿を消した。

「日本が発祥だと思った」

マクドナルドの勢いは衰えない。店舗数は右肩上がりに増え続け、99年には3000店を超えた。

山迫さんは財務部や監査室などを経て、2002年に退職。最後の出社日、藤田社長にあいさつに行くと、色紙を渡された。「勝てば官軍」の文字がしたためてあった。

「ゼロから負けずに歩んできた。その経験を生かし、これからの人生も負けるなというメッセージだと思った」

地元の相模原市の公民館でボランティアスタッフになった。小中学生向けの「キャリア教育」の講師などを務め、マクドナルドでの経験も語っている。小学生から寄せられた感想文に「日本が発祥だと思った」と書かれていた時は、感慨を覚えた。それだけ国民に浸透したのだと。

「マック一色の人生に悔いはない。人に恵まれ、多くのことを学ばせてもらった」。今も毎週、店舗に足を運ぶ。頼むのは決まってビッグマック。かぶりつくと、ニコリと笑った。

「うん、やっぱりうまい」

取材・文/大井雅之・読売新聞社会部「あれから」取材班

『「まさか」の人生』(新潮社)

読売新聞社会部「あれから」取材班
マクドナルド日本1号店のお客が来ない日々…「行儀が悪い」と言われたハンバーガーの立ち食いを「オシャレ」に変えた20代店長の奮闘
『「まさか」の人生』(新潮社)
2025年5月19日1,034円(税込)240ページISBN: 978-4106110894

大人気ゲーム「ぷよぷよ」を失ったプログラマー、野茂をメジャーに流出させた300勝投手、箱根往路のゴール目前で倒れた大学生、石器発掘の〈神の手〉に騙された研究者――。人生には「まさか」がついて回るが、ニュースになるほどの不運や失敗に見舞われた人々は、その渦中にあって何を思い、その後も続く長い人生をどう生き抜いてきたのか。知られざる軌跡と人間ドラマを描く人気連載、待望の新書化!

(目次)
 はじめに

1 「ぷよぷよ」生んだ会社がはじけ、消えたワケ

2 山一元No.1営業マン、再就職先では「最低なサラリーマン」に

3 文民警官がまいた種――息子はカンボジアに殉じた

4 「野茂をメジャーに流出させた」300勝投手、名監督にあらず

5 技術は負けていなかった 「一太郎」vsマイクロソフト「ワード」

6 分離手術を受けたドクさんは、ベトさんを失った

7 日本初の生体肝移植、執刀医の「決断」

8 裏切られた名監督 関東学院大学ラグビー部の綻び

9 「あの日」「あの日々」を越えて 三陸鉄道はまだやれる

10 中国で突然拘束、2279日間の苦難

11 初の「セクハラ訴訟」原告A子が実名を名乗った日

12 「お前はグルか、バカか」〈神の手〉にだまされた研究者の20年

13 女子よ見てくれ!「ウォーターボーイズ」部員たちの進路

14 銀座に上陸したマクドナルド1号店、お客が来ない日々

15 「甲山事件」逮捕された「悦っちゃん先生」の50年

16 運営ミスで失格 目前で「五輪内定」を逃した競歩エース

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19 「懸賞生活」乗り越え 喜劇俳優の「自分だからこそできること」

20 挑戦者2万人「アメリカ横断ウルトラクイズ」優勝者の覚悟

 おわりに

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