学校の怪談の大スター「テケテケ」は沖縄が発祥? 36人の少女が海に消えた「中河原海岸水難事故」でも囁かれた“戦争”幽霊の存在
学校の怪談の大スター「テケテケ」は沖縄が発祥? 36人の少女が海に消えた「中河原海岸水難事故」でも囁かれた“戦争”幽霊の存在

子どもたちが学校で語る“怪談”において、戦争が落とす影はかつて重要な位置を担っていた。戦争の怪談には、空襲や原爆などの戦災で亡くなった一般人と、戦死もしくは非業の死を遂げた旧日本軍の兵士、大きく分けて2種類の幽霊が登場したものだ。

しかし、終戦から時が経つにつれ、直接的な影響力は弱まっていき、今の子どもたちの怪談においては戦争はどのように扱われているのだろうか。

 

『よみがえる「学校の怪談」』より、一部抜粋・再構成してお届けする。

「中河原海岸水難事故」の怪談

戦争の怪談には、大きく分けて2種類の幽霊が登場する。空襲や原爆などの戦災で亡くなった一般人と、戦死もしくは非業の死を遂げた旧日本軍の兵士である。

まず空襲犠牲者にまつわる怪談から触れていく。この代表例として挙げられるのは、「中河原海岸水難事故」の怪談だろう。

——1955年7月28日、三重県津市の中河原海岸にて、地元の橋北中学校が水泳訓練の授業を行っていた。天候もよく海も穏やかだったのだが、突如として多数の女子生徒が溺れだす。救助や治療が行われたものの、女子36名が死亡にいたる大惨事となった。

そして時が経つにつれ、事故の原因が幽霊によるものだったとの怪談が語られるようになる。

資料によって語り口は異なるものの、要点を総合すれば以下の通り。

・海の中で、防空頭巾をかぶった(または、もんぺ姿の)大勢の女の人たちに足をひっぱられたと、助かった女子生徒が証言している。

・中河原海岸は、10年前の津市空襲の犠牲者たちの遺体が多数埋められた場所だった。

遺体の数は36名で、水難事故の犠牲者数と一致している。つまり空襲の死者たちが亡霊となって海中にひそんでおり、その手にひっぱられて女子生徒たちが溺れ死んでいった……というストーリーである。

ただしこれらの言説は、後藤宏行による著書『死の海─「中河原海岸水難事故」の真相と漂泊の亡霊たち』の綿密な調査などにより、現在ではすっかり否定されている。

女子生徒の証言は当時のマスコミの過剰演出で捻じ曲げられたところが大きく、中河原海岸に空襲犠牲者が大量に埋葬されたということ自体が事実無根だ。

なぜ当該事故が怪談として語られるようになったかのプロセスについては、『死の海』本書を参照してもらいたい。

80年代には似たような類話が各地で発生

とにかく、この事故に空襲犠牲者たちの祟りを重ねるような言説は『週刊読売』『伊勢新聞』『女性自身』などの記事を経て形成されていく。

また、この情景を描いた水木しげるのイラスト「集団亡霊」も多くの人々に強烈なイメージを与えただろう。そして後藤は松谷みよ子『現代民話考5』によって、「中川原海岸水難事故にまつわる怪談は、紆余曲折を経て、ようやく完成の域に達した」と指摘する。

「松谷のこの話によって、事故にまつわる因縁、そして現場にまつわる『呪われた物語』が固定化され、現在も流布している」

本書の論点で述べるなら、これはまさしく戦争にまつわる学校の怪談であった。

多くの虚偽や誇張により形成されたにせよ、ともかく空襲犠牲者の祟りといった言説が世間に支持されてしまったのは確かだ。防空頭巾をかぶり、もんぺを穿いた女性たちが、海の底から足をひっぱりにきたという情景と語りは、大きな訴求力を持った。

その影響からか、80年代には似たような類話が各地で発生する。

例えば、海やプールで泳いでいた若者が、不自然な形で溺れ死んでしまう。

その直前に撮影された写真には、海から無数の手が伸びて、彼の身体を掴む様子が写っていた……という話。

命が助かる場合であれば、海から伸びる手を肉眼で見る、体験者の足首にくっきりと手形が残っているなど様々なパターンが語られる。1991年放送の関西テレビ『恐怖の百物語』の書籍版1~3巻には、同じような怪談が各巻1話ずつ掲載されている。80年代末までに、類話が怪談として完成し、若者たちに広く流布していたのだろう。

また稲川淳二の怪談「東京大空襲」は、防火用水のプールに、大勢の空襲犠牲者たちの霊が現れる話だ。

水中から手が伸びて溺死させようとする話は、昭和後期から平成初期にかけての典型的怪談として巷間に広まっていた。手の主が空襲の犠牲者たちだと直接に語られずとも、そのイメージの大元には戦争の影があったはずだ。

沖縄では、テケテケと戦争怪談とが接続

沖縄は苛烈な地上戦が繰り広げられた経緯から、戦争にまつわる怪談が多い地域だ。当然ながら、子どもたちの語る怪談においても戦争の影響が深く見られる。

また沖縄は、「テケテケ」発祥の地ではないかとも目されている。現在確認されている限り、テケテケについて最も早期の報告事例が、1980年頃の沖縄だからである。

そんな沖縄では、学校の怪談の大スターであるテケテケと戦争怪談とが接続するのだ。

テケテケとは、腰から下が欠損している、上半身だけの姿が特徴の怪異。

しばしば肘を地面に叩きつけながら、猛スピードで追いかけてくると語られる。学校の怪談としてメジャーな存在となっているが、元々の出没エリアは学校ではなく、道路で出くわすパターンが主だったとも言われる。

先述通り沖縄は非常に早い時期からテケテケが語られている。全国的な知名度が高まるよりもずっと前から、学校の怪談として広まっていたようだ。

沖縄の怪談師ヨシロー氏(1980年生)によれば、沖縄市の彼の出身校では、入学以前からテケテケ怪談が継承されていたとのこと。やはり上半身のみの幽霊だが、呼び名は「テクテク」だったそうだ。

この発音の違いについては、沖縄でよく見られる傾向である。テケテケ名称が全国的に固定されるまで、県内ではテケテケとテクテクの呼び名が混在していた。

沖縄ならではの相違は他にもある。テケテケが上半身だけとなった由来は、鉄道事故に遭って体を切断されたからというのが典型例だ。しかしヨシロー氏によれば、出身校の教師が次のような由来を語っていたという。

——沖縄戦終了直後のこと。

アメリカによる占領統治が始まり、沖縄一帯に米軍が展開していった。まだあちこちに戦死者の遺体が転がっており、米兵たちはその回収作業を行っていた。激しく損壊した遺体を、次々にトラックの荷台へと投げ込んでいくのだ。

中には、上半身と下半身が切断された遺体まであった。その下半身を荷台に積んだ直後、次の地点へ向かおうとトラックが走り出してしまう。作業中の兵士は、慌てながらそれを止めた。地面に残された上半身を指さし、運転手に向かってこう叫んだのである。

「Take IT!  Take IT!(持っていけ!)」

その場面を見ていた地元民が、上半身のみとなった人間を英語で「テケテケ」「テクテク」と呼ぶのだと勘違いした。それがテケテケもしくはテクテクという名の由来になったのだという。

80年代に、沖縄市周辺の小学校に広まっていたエピソードのようだ。もちろん事実ではなく、テケテケ・テクテクの音から逆行して生み出された由来譚だろう。

しかしテケテケ怪談が最初期に広まったのが沖縄であるのならば、こうした戦争怪談として語られていた時期が確かにあったのではないだろうか。



全国的に見渡せば、テケテケが上半身のみとなった理由は鉄道事故によるものと説明されることが多い。列車に轢かれるほどの力が加わらなければ、下半身切断に至る経緯としてリアリティがないからだろう。

また切断された傷口が寒さのため一瞬で凍りつき、被害者がしばらく生きていたという下半身切断伝説も、テケテケの来歴として語られがちだ。そのためか、北海道は沖縄に次いでテケテケ怪談が早期に広まった地域でもある。

しかし沖縄には鉄道がない。そうなると地上戦を経験し、米軍統治下にあったという歴史が、テケテケの由来として説得力を持ってくるのだ。

これはテケテケに限らずあらゆる怪談に言えることだが、なぜその怪異が人を襲うのかという理由を語るのならば、激しい怨念を抱くほど悲惨な死を迎えた背景に触れなくてはならない。

例えば傷口が凍りつき激痛で苦しみながら死んだ、というのは一つの理由となる。そして「戦争」もまた、悲惨な死の原因としてよく持ち出されるモチーフであった。

文/吉田悠軌

よみがえる「学校の怪談」

吉田 悠軌
学校の怪談の大スター「テケテケ」は沖縄が発祥? 36人の少女が海に消えた「中河原海岸水難事故」でも囁かれた“戦争”幽霊の存在
よみがえる「学校の怪談」
2025年7月4日発売1,540円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-788121-9

恐怖が生まれ増殖する場所は、いつも「学校」だった――。
繰り返しながら進化する「学校の怪談」をめぐる論考集。

90年代にシリーズの刊行が始まり、一躍ベストセラーとなった『学校の怪談』。


コミカライズやアニメ化、映画化を経て、無数の学校の怪談が社会へと広がっていった。
ブームから30年、その血脈は日本のホラーシーンにどのように受け継がれているのか。
学校は、子どもたちは、今どのように語りの場を形成しているのか。
教育学、民俗学、漫画、文芸……あらゆる視点から「学校の怪談」を再照射する一冊。 

編集部おすすめ