
1982年7月21日に発売された『待つわ』でデビューした岡村孝子と加藤晴子の女性デュオのあみん。わずか1年半という短い活動期間のなかで、鮮烈な印象を残したふたりの素顔とは……。
デビュー年に年間チャート1位となるほどの大ヒットを記録
あみんは、岡村孝子と加藤晴子という現役女子大生によるデュオだった。1982年の「第23回ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称ポプコン)に出場するため、岡村が作った楽曲『待つわ』で応募して、地区大会を勝ち抜いて本線(全国大会)に進んだ。
事前にはさほど注目されていなかったあみんが、グランプリに選ばれたのは、『待つわ』という歌の新鮮さがストレートに受け入れられたからだ。10代の女性の気持ちが素直に打ち出された歌詞は、いい意味でアマチュアらしく自然体で、素朴な“歌心”に光るものがあった。
ポプコンの審査員は全員がアマチュアの音楽ファンだったので、伸びやかな歌声と清々しくて爽やかなハーモニー、コマーシャリズムに毒されていない姿勢が共感を呼んだのだ。
さらに、「わ」の音韻を散りばめた歌詞も、よくできていて効果的だった。
そうした流れから、ポプコンのグランプリ曲の常で、何の心の準備もないまま、二人はレコードを出してプロデビューすることになった。
そのとき、アレンジを担当したのが萩田光雄。ヤマハ作編曲教室の出身で、アレンジャーとして大活躍していた才人である。
『待つわ』が同世代の女性以外からも支持されたのは、明快なハーモニーを活かすために2拍4泊のアフタービートにアクセントを置いた、萩田の絶妙ともいえるアレンジの力が大きい。
シングル盤の『待つわ』はリズミカルで力強いイントロのフレーズ、素朴な歌を飾る流麗なストリングスなどによって、久保田早紀の『異邦人』(1979年)にも匹敵するポップなサウンドになった。
あみんのデビュー・シングル『待つわ』は、発売されるとすぐにヒットチャートを駆け上がって1位になった。そして影響力があった人気歌番組『ザ・ベストテン』でもランクインし、その年のオリコンでは年間チャート1位となるほどの大ヒットを記録した。
ところが予想をはるかに超える大ヒットになったことの影響で、平凡な女子大生だった二人を取りまく状況と生活環境が一変する。
大人社会の都合で次々と埋まっていくスケジュール
テレビの出演などでスケジュールがいっぱいになり、連日マスコミの取材を受けるうちに、プライベートな時間も持てなくなっていった。名古屋の椙山女学園大国文科2年の学生だった二人は、「私たちは芸能界に入ったわけじゃない。学生をしながら好きな歌を歌っていければと思っていた」という。
だが、そうした気持ちを表すことも難しく、大人社会の都合で次々と埋まっていくスケジュールに抗うことができなかった。9月半ばから前期試験が始まるというのに、準備のための勉強は後回しとなり、落ち着いた学生生活に戻ることは不可能だった。
デビューから5ヶ月後にはNHK『紅白歌合戦』への出場も決まったが、それを喜んでいられる状況にはなかった。初出場の記者会見を欠席したのは、大学のレポート提出に追われていたからだったという。
加藤晴子は翌年になって音楽活動を辞めることにし、彼女を音楽に誘ってくれた岡村孝子に話して同意を得た。二人は4枚のシングルと1枚のオリジナル・アルバムを残して、1年半に及んだ音楽活動を休止することにした。
充電期間を置いた岡村が、ソロのシンガー・ソングライターとして、再び音楽活動を始めたのは1985年の秋である。
大学卒業後に就職した加藤だったが、結婚後も二人の交流は続いていて、2007年には24年ぶりにあみんを一時的に復活させている。
ところで、『待つわ』のミリオンセラーに貢献した萩田光雄は、自分がアレンジした膨大な数の作品の中でも特に気に入っている作品として、ほとんどの人に知られていないあみんの『冬』をあげている。
「誰も知らないような曲でいいんなら、あみんのアルバムの中に入っている「冬」っていう曲があって、それは木戸(やすひろ)さんが作曲して、加藤(晴子)さんが歌ったんだけど、ボサノヴァでね。あれ、気に入ってる」
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
引用/川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久 共著「ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち」(DU BOOKS)