「この部隊へ入ったら最後、もう戻ってはこれない。長男はだめだぞ」“特攻専門”の航空機「桜花」特攻を志願した男が死を最も間近で感じた瞬間
「この部隊へ入ったら最後、もう戻ってはこれない。長男はだめだぞ」“特攻専門”の航空機「桜花」特攻を志願した男が死を最も間近で感じた瞬間

民間機のパイロットを夢見た野口剛は、太平洋戦争で零式艦上戦闘機「ゼロ戦」の操縦士となり、特攻隊「神雷部隊」への入隊を志願する。野口が「身を挺して護ろう」としたのは、この国にいつか訪れるだろう……そう信じた平和だった。

 

『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)より一部抜粋、再構成してお届けします。

神雷部隊への志願

1944(昭和19)年8月。打つ手をなくした日本海軍は敵艦隊攻撃の特別攻撃機「桜花」の開発に着手する。

奇しくもB-29に初めて「屠龍」が体当たりしたのと同じ月に試作機の開発が始まったのだ。そして着手から、わずか約2カ月で「桜花」は完成した。

同年10月、「桜花」を運用する部隊「第七二一海軍航空隊」はこうして創設される。

戦局を打開する起死回生の任務を担う、その部隊は軍内部でも極秘扱いで、通称「神雷部隊」と呼ばれた。

「桜花」は機首部に爆弾を搭載した全長6メートルほどの小さな“特攻専門”の航空機だった。

機体の左右に小さな翼を持つが、自力で離着陸するためのエンジンは搭載されておらず、一式陸上攻撃機(一式陸攻)など大型の機体に固定されて運ばれ、目的地の上空で切り離された後、固形ロケット燃料を噴射させて加速。滑空しながら敵軍艦に体当たりすることを目的に開発、製造された。

つまり、「桜花」は上空で切り離されると、操縦者には機体もろとも特攻するしか道は残されていなかった。

第二次世界大戦末期に実戦に投入され、終戦まで計755機が製造され、操縦士55人が特攻で戦死した――と記録されている。

野口が予備学生を指導する操縦教官に就いてから数カ月が過ぎようとしていたころのことだ。



「神雷部隊ができるらしい、という話は聞いていました。しばらくして基地の上官に呼ばれ、『このなかに志願者はいるか。行きたい者は、この紙に丸を書いて出しなさい』と一枚の志願書を手渡されました」

このとき、野口は神雷部隊が「桜花」を使った特攻隊である、ということまでは知らなかったという。

ただ、教官はこう続けた。

「この部隊へ入ったら最後、もう戻ってはこれない……と。そして、『両親はそろっているか、兄弟はいるか、長男はだめだぞ』など家族についていろいろと確認されました」

そんな“ただ事ではない事態”を想像させる上官の言葉を察し、「志願すること」を迷い、ためらわなかったのだろうか?

野口は毅然とこう言った。

「迷いはなかったです。私には両親もいましたし、長男でもないし……。同期の友人と相談し、『一緒に行こうか』と決めて志願書に『丸』を書いて提出しました。私にとって、それはごく自然の選択でした」

野口と同期の親友。2人は特攻隊を志願した。

「桜花」を護る決意

1944(昭和19)年11月、野口は第七二一海軍航空隊に選抜され、翌1945(昭和20)年2月1日、同航空隊第三〇六飛行隊へと配属される。

着任した基地の格納庫で初めて「桜花」を見た。

そのとき野口はこんな感想を抱いたという。
 
「プロペラは付いていないし、操縦席にある計器も2つか3つしか付いていない。シンプルな形状なのに機体後部(尾部)にはロケットが3基付いている。この変わった機体で、いったいどうやって戦うのだろうか……」と。

野口が初めて見た「桜花」は不思議な形状をしていた。

胴体と尾翼は軽合金製だが、主翼は木製(一部の機体は鋼板製か軽合金製だった)。簡素化された操縦席にある計器は速度計と高度計、傾斜計の3つのみだった。

「上官の説明により、この『桜花』は一式陸攻に積んで運ぶのだと知りました」

そして、野口は、そこでようやく自分の任務を理解することができたと言う。

「第七二一海軍航空隊に所属する私たち『ゼロ戦』の操縦士は、『桜花』を搭載した一式陸攻を目的地まで護衛し、切り離された『桜花』の特攻を敵戦闘機から護ることが任務なのだ」と。

このとき、野口の心の奥底で強い覚悟が芽生えていた。
「何としてでも、この“神雷(=桜花)”を護らなければならない」と。

野口はさらにこう続けた。


「神雷部隊は、他にはどこにも存在しないのだ。日本に、たったひとつしかない特別な部隊である。私は、その一員なのだという誇りを持ちました」

特殊任務を背負った第七二一海軍航空隊は実戦訓練を積み重ねながら基地を転戦していった。

九州・宮崎県の南西端にあった都城の基地へ「ゼロ戦」で向かったときのこと。

「目的地近くの上空から2つの基地が確認できました。1つの基地には、ほとんど戦闘機などが駐機しておらず、もう1つの基地には、多くの機体が駐機していたので、『おそらく、こちらだろう』と推測して降下し、着陸したら、そこは陸軍の基地だったのです」

初めて訪れた基地だったため、間違って着陸してしまったのだ。

「操縦席から降りると、向こうから陸軍の隊員が走ってきました。『ここは陸軍の滑走路だぞ! まあいい。今日は、ゆっくりここで泊まっていけばいい。明日、海軍の基地へ戻ればいいから』と言ってくれたんです」

海軍と陸軍は互いに仲が悪かった……。

現代では、それが“神話”のような史実として伝えられているが、そうではない兵士も少なくなかったようだ。あるいは、野口の実直な人柄が、陸軍兵士に素直に、そんな優しい言葉を言わせたのかもしれないが……。



取材中、この話になったとき、野口が一枚の古いモノクロのスナップ写真を見せてくれた。

飛行服で全身を包み、飛行帽をかぶった精悍な顔つきの若き日の「ゼロ戦」操縦士、野口剛が立っていた。後ろには軍用機が写っている。どこかの基地のようだが……。

筆者は写真に見入り、「鮮明な写真ですね。いつどこでこれを撮影したのですか?」と問うと、野口は柔和な笑みを浮かべながら説明を始めた。

「ここに写っているのが、今、お話しした私が間違って着陸した陸軍の基地なんですよ。『ここは陸軍の基地だぞ』と、教えてくれた兵士がそのときにカメラで撮影し、翌日、現像して届けてくれたのが、この一枚の写真です。カメラが好きだと話す、本当に優しい青年でしたね」

「ゼロ戦」での初陣

野口の所属する第三〇六飛行隊は宮崎県の富高海軍航空基地へと転戦。来る日も来る日も特攻を想定した実戦訓練が続いた。

1945(昭和20)年3月18日。野口はこの特別な日を忘れない。

米艦隊による日本本土への空襲を阻止するための、「邀撃戦(=迎撃戦)でした」。

現代でいうスクランブル発進で飛び立った、この出撃が、野口にとって初めての空中戦だった。

「ゼロ戦」操縦士となった野口の初陣である。

午前7時過ぎ。野口らが操縦する「ゼロ戦」4機が基地の滑走路から次々と離陸。編隊を組んだ4機の操縦士は一気に操縦桿を引き上げ、急上昇していく。

朝日を浴びながら、高高度を飛行中の敵戦闘機の編隊へと向かっていった。

「初めての空中戦の記憶は忘れません。1番機を操縦する隊長が、『俺に付いて来い!』と離陸直前、声をかけてくれていました。しかし、無我夢中で隊長機に付いていくのが精いっぱいで。操縦桿に付いた機銃の引き金(トリガー)の引き方も思うようにならず、気づいたら弾薬を撃ち尽くし、弾切れです。極度の緊張状態でした」

弾薬が切れると、戦闘空域からいったん離脱し降下。弾薬を補充するため、基地へと戻らねばならない。



「初陣では4回、この離着陸を繰り返しました。その度に整備員に大急ぎで弾薬と燃料を補給してもらい、空中戦へと戻っていくのです」

この日の邀撃戦での日本海軍の被害は甚大だったという。

「目の前で多くの僚機が撃ち落とされていくのを見ました」

無事に基地に帰還した野口だが、夕食を取るために向かった食堂で大きな衝撃を受ける。

この日、野口が、「同期のなかで一番仲が良かった」と語る友人の操縦する「ゼロ戦」が帰還していなかったのだ。

「神雷部隊へ志願するか?」

そう上官に聞かれた、あの日のことを野口は思い出していた。

「私には両親がいるし、長男でもない。お前もか。では一緒に行こうか……」

そう語り合いながら神雷部隊へともに行くことを決めた親友、畠山力が今日の空中戦で戦死していたのだ。

野口は、「死を最も間近で感じた瞬間だった」と言う。

「基地では上官から、よくこう言われていたんです。『部隊では友人はできるだけつくるな』と。なぜ、上官はそんなことを言うのだろうか。私たち仲間は、皆、不思議な気持ちでそう思っていましたが、その言葉の意味が、このとき、よく理解できました」

その後も、ずっとこの辛い思いが途切れることはなかった。

「毎回、出撃して基地へ帰還し、食事中に分かることがあります。そこで初めて、席についていない仲間がいることを確認するのです……」

すると野口が「仲の良かった4人で撮ったんですよ」と話しながら一枚の記念写真を取り出した。

そこには野口と同様に制服姿で椅子に腰かけた畠山が写っていた。

「前にいる畠山と私が飛行教官で、後ろに写っている2人が練習生です」

教官をしていた時代があった。そう野口が語った当時、一緒に撮った写真だった。

少し緊張した表情の4人。軍人らしく凛々しくも、全員まだどこかに幼さを残した10代の若者たちだった。

数時間に及ぶロングインタビュー中、終始、冷静沈着、理路整然と、かつ気丈に語り続けてくれた野口が、ぐっと感情を押し込めるようにして、小さく嗚咽する瞬間が何度かあった。

両眼から涙がこぼれ落ちないように、ぐっと唇を噛みしめながら……。

初陣で親友を亡くした、その日に思いを馳せた瞬間、涙をこらえきれなくなった野口の心の奥底から込み上げてくる嗚咽の声が、慟哭のように聞こえた。

その声は、今も筆者の胸に刻みつけられ、残されている。

文/戸津井 康之

『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)

戸津井 康之 (著)
「この部隊へ入ったら最後、もう戻ってはこれない。長男はだめだぞ」“特攻専門”の航空機「桜花」特攻を志願した男が死を最も間近で感じた瞬間
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)
2025/7/161,144円(税込)264ページISBN: 978-4334106959

何のために命を懸け、いかに生きたのか 
〝体当たり〟の真実に迫る 

◎内容 

命を懸けて大空を飛んだ 
4人の証言から「特攻」の真実に迫る――。 


この書のテーマは「特攻」である。 
「特攻」という言葉を現代の日本人で知らない者はいないだろう。
だが、実は、「その言葉には決まった定義がなく、説明もあいまいで 
その概念は定かではない」ということを知る日本人は少ないのではないか。
戦後80年の間、その定義を、その後に生まれた日本人たちは、 
それぞれが勝手に判断し決めつけてきた。
それが、「かつて特攻が行われたという史実」から、
年月が経つほどに日本人の目を背けさせてきた理由ではないか? 
(「はじめに」より)  

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