
日本の高齢者一人当たりの医療費は、先進諸国に比べて高い。にもかかわらず、日本は「老人に優しい国」とは思われていないのが実情である。
里見清一著『患者と目を合わせない医者たち』より抜粋・再構成し、“望まぬ延命治療”を例にこの問題を紐解く。
お金をかけているのに誰も喜んでいない日本の高齢者医療
私はかねて「75歳以上の高齢者には延命治療を控え、緩和医療を充実させよ」と主張している。そんな私が言っても「何を今さら」と呆れられそうだが、我が国は、例えば北欧諸国と比べて、「老人に優しい国」とは思われていない。他国からもそんな評判は聞かず、自分たちもそう思っていないはずである。ただ実際には、80歳以上の高齢者一人当たりにかける医療費や介護費用(他の年代との比較で)は、OECD諸国の中で日本がナンバーワンだという。そうすると、誰よりも金をかけて、誰も喜んでいないという話になってしまう。
老人に対する日本の「金のかけ方」を考察する前に、福祉大国としてよく引き合いに出されるスウェーデンの医療事情を見てみよう。周知のようにスウェーデンは2020年のパンデミック発生時、ロックダウンなどの行動制限を取らなかった。その結果多数の感染者が出たが、80歳以上の患者は集中治療室(ICU)での治療対象にしなかったそうだ。これは80歳以上だけの話ではなく、腎不全などの重い合併症がある70代の患者もそうで、つまりは「見込みが薄い」「どうせ長くない」人たちの救命治療を諦め、その分の医療資源を他に回したのだ。ICUに入れられなかった患者は自力で回復するか、もしくは鎮静剤処置で苦痛を和らげるのみだったという。
介護施設の高齢者では感染の診断がついても入院治療されたのは1割程度だったそうだ。
ある日本人医師がスウェーデンの老人ホームを訪問したところ、でっぷり太った施設長のナースから、とても甘いケーキをご馳走になったそうだ。食事制限について尋ねると、「高齢者の楽しみは食べることで、それを制限してなんのために生きるのだ」と一笑に付されたという。日本ではよく「誤嚥性肺炎を起こした」と老人施設が入居者の家族に訴えられるが、ヨーロッパの施設では「誤嚥性肺炎」はないそうだ。なぜなら食べられなくなったらそのまま看取るのであり、肺炎になってもそれは「寿命」である。よって「誤嚥性肺炎」という病名すらつかず、医療によって「生かされる」寝たきり老人もいない。
どうして「自分にはしてほしくない治療」を親に強いるのか
我が国では、「ピンピンコロリがいい」なんて言葉だけは流行っているが、いざ何事かが起こると、延命治療について「考えたこともなかった」とうろたえる人がほとんどである。別に覚悟を決めて食事を楽しんだり生活を謳歌していたわけではなかったと、ここで顕れる。そして「そんなに急には決められない」から、「できる治療はやってください」となってしまう。
結果、ズルズルと延命処置が続く。食べられなくなったら胃瘻を造り、脱水になったら点滴をし、血管が潰れて点滴ができなくなったら皮下注射で水分補給をして、寝たきりのお年寄りを「見殺しにせず、全力を尽くして」生き永らえさせるのがデフォルトになっている。そうした人たちの面倒をみる老人施設から、寝たきりで耳も聞こえず言葉も出ない老人が「調子が悪い」からその原因検索のため全身CTを撮ってほしい、なんて要請が大病院に来る。
実は依頼をする施設の担当医の方もそんなの無意味だとわかっていて、頼みたくないのだが、「命は地球より重い」し、「年齢で差別するのは倫理に反する」から、「家族からの要請」があれば対応せざるを得ないのだ。手足が拘縮していて普通のレントゲンは撮影できない。コミュニケーションが取れないからどこが痛いのかもわからない。だから依頼される病院の放射線科医は、「何かありますか」という、投げやりのような依頼状をみて嘆息をつきながら、やはりCTでチェックするしかない。それで肺炎でも見つかれば高額の「最新抗生物質」で治療をする。何も見つからなければ「老衰でしょう」となるが、90歳を超えた寝たきり老人が「老衰」だと診断するにもCTが必要だなんて、そりゃ金もかかるだろう。
私の周りの誰に聞いても、寝たきりの「生かされた」状態で延命治療などしてほしくない、と答える。おそらく読者もそうだろう。実際に、救急外来で老衰した親を連れて来る家族も、「自分だったら?」と訊かれると「自分ならそこまでしなくてもいいが」と答えるようである。
平成2年、私は横浜の病院で、部長と二人だけで、肺癌の病名告知を始め、周囲からの好奇と非難の目を向けられた。当時すでに、世論調査では、「自分が癌になったら病名を教えてほしい」という人が圧倒的多数であった。その一方で「自分の家族がなったら、告知しないでほしい」という回答が、これまた圧倒的多数であった。そんなの矛盾しているではないかと私が指摘すると、「いや、これは日本人の優しさの表れなのだ」と反論された。
だがそれから10年もしないうちに、日本でも癌告知は当たり前になった。患者には告知しないことが「優しさ」だったなら、その「優しさ」はどこへ行ったのか。10年で日本人が優しくなくなったわけでもあるまい。もともとそんな「優しさ」なんてまやかしだったと考えるほうが自然だろう。だから私は、自分が望まない延命治療を老いた親に強いる人たちの「情愛」や「優しさ」を信じない。もし日本の保険医療制度が破綻して何十万、何百万円かかるその治療を自費で負担せねばならないとなったら、「だったらいいです」という台詞が世の中に溢れるだろう。
文/里見清一
『患者と目を合わせない医者たち』(新潮新書)
里見清一