赤髪モヒカンから普通の高校生まで…2000人超が熱狂した「新宿アルタ前ソノシートばらまき事件」ラフィンノーズがインディーズシーンを変えた爆発的現象
赤髪モヒカンから普通の高校生まで…2000人超が熱狂した「新宿アルタ前ソノシートばらまき事件」ラフィンノーズがインディーズシーンを変えた爆発的現象

1980年代に出現し、世間を騒がせたパンク&ニューウェーブ系インディーズシーン。その熱狂的なムーブメントを引き起こした事件があった。

いったい何が起こったのか、元「smart」編集長の著者が解説する。

『いつも心にパンクを。Don’t trust under 50』をより、一部抜粋・再構成してお届けする。

新宿アルタ前ソノシートばらまき事件

1985年4月28日。東京・新宿駅東口・アルタ前には異様な光景が広がっていた。

赤い髪を逆立てたりモヒカンにしたり、鋲つきリストバンドや革ジャンで身を固めたりした典型的なパンクスから、ごく普通ないでたちの高校生まで、2000人超の若い男女の人だかりで埋め尽くされた。

正午からラフィンノーズが未発表ソノシートを無料配布すると、雑誌『宝島』『DOLL』『フールズメイト』の誌上で事前告知していたからである。

ボーカルのチャーミーとベースのポンを中心に、1981年から大阪で活動を開始したラフィンノーズは、日本のハードコアパンクシーンの中核的なバンドと見なされながら、音源の発表ごとにサウンドを徐々にポップ化させ、それと比例するかのように人気がうなぎ登りだった。

みずからのレーベルであるAAレコードからファーストEP『ゲット・ザ・グローリー』をリリースしたのが1983年12月。ファーストアルバムである『プッシー・フォー・セール』のリリースが1984年11月である。彼らの初音源である2曲が収録されたオムニバス盤『アウトサイダー』の発売が1983年2月だったことを考えると、わずか2年余りの間に、とんとん拍子で人気が拡大したことがうかがえる。

のちに“新宿アルタ前ソノシートばらまき事件”と呼ばれたこの日の顛末だが、集まった若者たちの前にチャーミーとポンが登場すると、歓声と叫び声がこだまし、群衆はパニック寸前になってしまった。

チャーミーはガードレールに登って「危ないから押すな! ゆっくり下がれ!」と叫び、結局この場でのソノシート配布は断念。

昼の部のライブをブッキングしていた新宿ロフトにファンたちを誘導し、そこで配布することになった。

アルタ前から移動した客はロフト前の路上にもあふれかえったため、急きょ、入替制で2ステージがおこなわれた。

ライブ後、ライブハウスには入れなかった500人以上の客を含め、手渡されたソノシート『WHEN THE L'N GO MARCHIN'INN』(『聖者が街にやってくる』のカバー。一部の人には引換券が配布され、後日、中野のレコード店で引換となった)は、事件の記憶とともにその後のラフィンノーズの代表曲のひとつとなる。

1970年代末から始まり、アンダーグラウンドな動きであったインディーズシーンの最初の爆発的現象は、ラフィンノーズによるこの事件であったと言って間違いないだろう。

メジャー化していくインディーズシーンの象徴的存在に

1980年代インディーズブーム真っ盛りのサブカル誌『宝島』、僕が愛読していたこの雑誌の編集長を務めていた人は、現在の宝島社社長・関川誠だ。

『宝島』発行元であるJICC出版局(現在の宝島社)が発足させたインディーズレーベル、キャプテンレコードも手がけていた関川は、このころのチャーミーとの会話を鮮明に記憶していた。

「当時は『宝島』もキャプテンも、でかくなるだけなるといいな、と思っていました。忘れもしないんですけど、そのためにはラフィンノーズのアルバムを出すことだと思って、チャーミーと話したんですよ。今はなき原宿のセントラルアパートメントの地下で、『何とか、うちから出せない?』って聞いたら、彼はしばらく考えて『やっぱりメジャーで出します』と。しょうがないなと思ったけど、あのときラフィンを出してたら、キャプテンはもっとすごかったと思うよ。あのころのラフィン人気は本当にすごくて、頂点だった」

ソノシートばらまき事件を経た1985年10月、ラフィンノーズは東京・日比谷野外音楽堂で、4000人を超えるファンを動員するワンマンライブを敢行。同年11月21日にバップよりアルバム『ラフィンノーズ』、シングル『ブロークン・ジェネレーション』でメジャーデビューを果たす。

このころ、“インディーズ御三家”と呼ばれていたトップ人気の3バンド、ラフィンノーズ、ウィラード、有頂天のなかで先陣を切ってメジャーに躍り出たのである。

『宝島』とキャプテンレコードを通じ、かねてより3バンドと親交のあった関川は、当時の状況を振り返る。

「インディーズが盛り上がって、このころ一気にメジャーが入ってきたんです。それまではどのバンドも、『インディーズでどこかから一枚でも出せればいいや』って感じだったのが急に引く手数多で、『どこのレコード会社にしようかな』という状態になってきた。バンドにしたら、それならやっぱりメジャーがいいってなるのは、仕方がないですよね」

ハードコアパンク畑出身らしい激しさとスピード感を保ちながら、ポップでキャッチーなサウンドに変化していたラフィンノーズの曲は多くの人に受け入れられ、アンダーグラウンドからどんどんメジャー化していくインディーズシーンの象徴的存在となった。

楽曲だけではなく、ラフィンノーズはルックスの良さもシーンのなかでピカイチだった。バンドのアイコン的存在のチャーミーは男前でおしゃれ。ガーゼシャツやボンデージパンツ、クラッシュジーンズ、ドクターマーチンブーツといった典型的パンクファッションをベースとしながら、赤白のボーダーシャツやベースボールシャツ、白ジャケットなど、従来のパンクファッションとは異質のアイテムをミックスするスタイルでキメ、バンド少年たちに憧れられていた。

当時、見た目だけのパンクスを「ファッションパンク」と揶揄するような風潮もあったが、ラフィンノーズのメンバーはそれぞれにとてもファッショナブルで、そうした声など軽くいなすような圧倒的にかっこいい存在だったのだ。

文/佐藤誠二朗

いつも心にパンクを。Don’t trust under 50

佐藤誠二朗(著)
赤髪モヒカンから普通の高校生まで…2000人超が熱狂した「新宿アルタ前ソノシートばらまき事件」ラフィンノーズがインディーズシーンを変えた爆発的現象
いつも心にパンクを。Don’t trust under 50
2025年8月26日発売1,980円(税込)四六判/288ページISBN:978-4-08-788119-6

「卑屈に生きるなと教えてくれたのはパンクだった」――ブレイディみかこ(作家)

ラフィンノーズがソノシートをばらまき、NHKが「インディーズの襲来」を放送し、キャプテンレコードが大規模フリーギグをおこなった1985年から今年で40年。
KERA(有頂天)、チャーミー(ラフィンノーズ)、HIKAGE(ザ・スタークラブ)、ATSUSHI(ニューロティカ)、TAYLOW(the 原爆オナニーズ)ら、1980年代に熱狂を生んだブームを牽引し、還暦をすぎた今もインディーズ活動を続けるアーティストから、大貫憲章(DJ、音楽評論家)、平野悠(「ロフト」創設者)、関川誠(宝島社社長、元「宝島」編集長)など、ライブハウスやクラブ、メディアでシーンを支えた関係者まで、10代からパンクに大いなる影響を受けてきた、元「smart」編集長である著者・佐藤誠二朗が徹底取材。

日本のパンク・インディーズ史と、なぜ彼らが今もステージに立ち続けることができるのかを問うカルチャーノンフィクション。本論をさらに面白く深く解読するための全11のコラムも収録。

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