雑誌『宝島』が仕掛けたインディーズ革命…元編集長が語る「キャプテンレコード」誕生秘話「ひな形はヴァージン・レコードなんです」
雑誌『宝島』が仕掛けたインディーズ革命…元編集長が語る「キャプテンレコード」誕生秘話「ひな形はヴァージン・レコードなんです」

80年代の最先端カルチャーだったパンク&ニューウェーブ文化を最前線で捉え続けた雑誌『宝島』。新進気鋭のインディーズ系アーティストたちや彼らの斬新な手法を誌面で紹介し続けた元編集長が、いち雑誌から生んだ熱狂があった。



『いつも心にパンクを。Don’t trust under 50』より、一部抜粋・再構成してお届けする。

出版社から「キャプテンレコード」誕生

雑誌というメディアが一方通行だったこの時代において、『宝島』は異質なメディアだった。

関川(編注※関川誠、宝島社社長、元『宝島』編集)が「共犯関係というか、密なやりとりをしてたような気がするのね、雑誌と読者が」と語るように、読者は単なる消費者ではなく、参加者でもあった。それを象徴するようなイベントが企画される。

1985年の8月18日。新宿駅東口ステーション・スクエア(駅前広場)に設けられた特設ステージで、JICC出版局が手がけるキャプテンレコードの発足記念フリーコンサート『好きよ‼ キャプテン』が開催された。

当時は『笑っていいとも!』でおなじみだった新宿アルタとステージの間は、大きな緑地帯と歩行者天国となった6車線の道路。この空間すべてが、ロックファンで埋め尽くされることになった。

自身もいちスタッフとして、このコンサート会場のバックステージで働いていた関川は語る。

「キャプテンレコードからは最初にウィラードをリリースすることが決まっていて、レーベルの周知を促すためのコンサートを企画したんです。だけど、こっちは出版社なのでイベントのノウハウもなかったから、当時のインディーズバンドのライブを仕切っていたPCMという会社に協力してもらいました。

彼らが、『新宿の東口広場でギグをやりませんか』って提案してきたときは驚きましたが、『あそこが使えるんだったら、やろうよ』と乗ったんです。

フリーコンサートで8000人くらい集まり、大変なことになりました。真夏だったから、ライブの合間に近所のビルや店にパンクスが大挙して涼みにいっちゃったりして、たくさん抗議もきましたけど」

炎天下の午後1時。メンバーに『宝島』編集部員も入ったキリマンジャロスがテーマ曲の『好きよキャプテン』を演奏し、ライブはスタートした。続いて有頂天が新曲の『心の旅』を演奏。名古屋のツインボーカルバンド、ローズ・ジェッツが登場したころ、聴衆は5000人を超えた。パパイヤパラノイア、ガスタンク、キャ→、コブラと人気バンドが続々登場すると、観客は加速度的にふくれあがり、7000人を突破した。

テントでつくった控室には、スタッフ、関係者、マスコミ取材陣でごった返し、ラフィンノーズのチャーミーや町田町蔵といった『宝島』ゆかりの人たちも顔を出す。

そして日が暮れかかったころ、ウィラードが登場。演奏が始まるや、ステージ前の客は熱狂状態でポゴダンスやダイブを繰り返す。聴衆はついに8000人に達し、紀伊國屋書店前から山手線のガードまで、ステージからの音が届くあらゆる場所に人があふれた。

雑誌『宝島』での告知だけでこれだけの人が集まったという事実は、当時の読者との関係性、そして文化的影響力の大きさを如実に物語っている。

「キャプテンレコードのひな形って、実はヴァージン・レコードなんです」

1985年10月にキャプテンから発売されたウィラードのファーストアルバム『グッド・イブニング・ワンダフル・フィエンド』は、初回プレスの1万枚があっという間に売り切れ、トータルで2万枚もの売り上げを記録した。続けて12月に発売された有頂天のシングル『心の旅』も、インディーズとしては初めてオリコンチャートにランクインするという、目覚ましい売り上げを記録する。



キャプテンレコードの発案について尋ねると、関川はイギリスの巨大メディアカンパニーの名前を口にした。

「キャプテンレコードのひな形って、実はヴァージン・レコードなんです。私はそのころ、ヴァージンがどうやって成功したかという本を読んで、こんなことができるんだと思ったのが、キャプテン発足のきっかけなんですよ」

イギリスの実業家リチャード・ブランソンは1966年、16歳のときにパブリックスクールを中退し、雑誌『スチューデント』を創刊。1971年には、趣味が昂じた中古レコードの通信販売で成功を収め、1972年、22歳にしてヴァージン・レコードを立ち上げた。

クラウトロックなど実験的でアート色の強いレコードをリリースしていた初期段階では経営難に陥るが、1977年、過激な楽曲が物議を醸し、複数のレコード会社から契約破棄されていたセックス・ピストルズと契約を締結。パンクムーブメントの拡大に伴って売り上げが増大し、経営難を脱した。

1980年代にはカルチャー・クラブなどを大ヒットさせて規模を一気に拡張、1984年には航空会社ヴァージン・アトランティック航空を設立する。その後も鉄道会社、ラジオ局、インターネット事業、携帯電話事業など業態を拡大し、現在では巨大な多国籍企業ヴァージン・グループを形成している。

関川は1980年代当時、雑誌からスタートアップしてレコード会社を成功させ、どんどん成長していくヴァージンにシンパシーを感じ、お手本にしようと考えたのだ。

正確な記録はないが、恐らく東京ロッカーズのころの日本のインディーズレーベルは、レコードを数百枚単位でしかプレスできなかったはずだ。

それからわずか数年後、万単位で制作し、広い流通ルートも確保したキャプテンレコードの登場によって、日本のパンク&ニューウェーブ系インディーズシーンは、新しいフェーズに入ったのである。

文/佐藤誠二朗

いつも心にパンクを。
Don’t trust under 50

佐藤誠二朗(著)
雑誌『宝島』が仕掛けたインディーズ革命…元編集長が語る「キャプテンレコード」誕生秘話「ひな形はヴァージン・レコードなんです」
いつも心にパンクを。Don’t trust under 50
2025/8/261,980円(税込)288ページISBN: 978-4087881196

「卑屈に生きるなと教えてくれたのはパンクだった」――ブレイディみかこ(作家)

ラフィンノーズがソノシートをばらまき、NHKが「インディーズの襲来」を放送し、キャプテンレコードが大規模フリーギグをおこなった1985年から今年で40年。
KERA(有頂天)、チャーミー(ラフィンノーズ)、HIKAGE(ザ・スタークラブ)、ATSUSHI(ニューロティカ)、TAYLOW(the 原爆オナニーズ)ら、1980年代に熱狂を生んだブームを牽引し、還暦をすぎた今もインディーズ活動を続けるアーティストから、大貫憲章(DJ、音楽評論家)、平野悠(「ロフト」創設者)、関川誠(宝島社社長、元「宝島」編集長)など、ライブハウスやクラブ、メディアでシーンを支えた関係者まで、10代からパンクに大いなる影響を受けてきた、元「smart」編集長である著者・佐藤誠二朗が徹底取材。日本のパンク・インディーズ史と、なぜ彼らが今もステージに立ち続けることができるのかを問うカルチャーノンフィクション。本論をさらに面白く深く解読するための全11のコラムも収録。

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