
インディーズブームの後を受けたバンドブームは、いきなりクライマックスから始まったムーブメントと言うことができる、と元「smart」編集長である佐藤誠二朗氏は語る。バンドブームの象徴「イカ天」が変えた、バンドという存在とは。
『いつも心にパンクを。Don’t trust under 50』より、一部抜粋・再構成してお届けする。
バンドブームの象徴「イカ天」
1980年代後半に始まったバンドブームは、その前のインディーズブームから切れ目なく推移したものだと述べてきた。しかしこれは僕のように、そもそもインディーズが好きでそっちのほうばかり向いていた者が見た情景であって、同ムーブメントをまったく違う目で見ていた人もいるだろう。いや、絶対数は、そちらのほうがずっと多いはずだ。
“バンドブーム”以前の1980年代中ごろから、日本の各メジャーレコード会社は、新機軸のバンドを次々と世に送り出していた。
『宝島』でも『DOLL』でも『フールズメイト』でもなく、『PATi・PATi』のような雑誌に大きくフィーチャーされたそれらのバンドの代表格をメジャーデビュー順に挙げると(以下、括弧内はレコードデビュー年・月)、レベッカ(1984年4月)、爆風スランプ(1984年8月)、バービーボーイズ(1984年9月)、SHOW–YA(1985年8月)、聖飢魔Ⅱ(1985年9月)、米米クラブ(1985年10月)、UP–BEAT(1986年4月)、プリンセス プリンセス(1986年5月)、レッド・ウォーリアーズ(1986年10月)、ゴーバンズ(インディーズ1986年2月、メジャー1987年5月)、パーソンズ(インディーズ1986年7月、メジャー1987年9月)、ユニコーン(1987年10月)などである。
こうしたメジャーバンドが、BOØWYやザ・ブルーハーツとともに人気を拡大させていったのがバンドブームの本流であると考え、インディーズ系については傍流に過ぎぬとみなし、さほど気にも留めていなかった人が多いのではないだろうか。
確かに、インディーズシーンばかりを過大に評価するのは歪んでいるかもしれない。だが僕はやはりインディーズがなければ、あそこまでの規模と勢いのバンドブームにはならなかったはずだと考えている。
そして、インディーズシーンが拡大して疑似メジャー化してしまったことこそが、バンドブームの死期を早めた要因なのではないかとも思う。
このころ、アマチュアからプロへのステップアップがあまりにも手軽になっていた。それまでのインディーズバンドの多くは、ライブハウスでの活動を積み上げ、自費でレコードを出してじわじわと知名度を上げていった。
だがバンドブームが本格化してきた1980年代後半には、そうした下積みのステップ抜きで、誰でも一気に人気バンドの仲間入りができそうな機運が醸成されたのだ。
それを象徴するのが、1989年2月放送開始のTBS系深夜番組『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』(通称・イカ天)である。
「イカ天」の功績と罪
イカ天については、純粋なアマチュアバンドコンテスト然としていた番組初期と、メジャーレコード会社がプロモーションのため、デビュー予定のバンドを顔見せとして送り込んでいた中期以降では、番組の性質が違うと見る向きもあるが、1990年12月の番組終了までに約850組ものアマチュアバンドの演奏を放送に乗せ、数多くの実力派を世に送り出した功績は大きかった。
その一方で、下積みの実績なく、実力のほども定かではないポッと出のバンドを、瞬間風速のみで人気バンド風に仕立てて見せた罪もまた大きい。
イカ天に出演し1989~1991年にメジャーデビューを果たしたバンドとしてはフライングキッズ、ジッタリン・ジン、ビギン、たま、マルコシアス・バンプ、人間椅子、ブランキー・ジェット・シティ、カブキロックス、ピンクサファイア、AURA、宮尾すすむと日本の社長、クスクス、ノーマ・ジーン、スイマーズ、リモート、ザ・5.6.7.8'S、有機生命体などがある。
現在も活動を続けているバンドもあれば、早々に華々しく散ったバンドもいる。そしてレジェンドとしていまだに語り継がれるバンドも。
だが、こうした一部のトップバンドは、たとえイカ天がなくても遅かれ早かれ世に出てきたはずだ。むしろイカ天によりテレビサイズに矮小化されてしまったことがデメリットとなったバンドもいた。
しかしそれ以外の多くの無名バンドは、イカ天に出て一発で顔を売ることを目指し、番組サイドや視聴者もそれを待ち望んでいた気配があった。インパクト重視の色物バンドによるお祭り騒ぎが、バンドブームに水を差したことは否定できない。
イカ天によってロックバンドはより身近な存在になり、“バンドやろうぜ”ムードも盛り上がった。
町田町蔵は僕が編集に携わったムック『宝島AGES』のインタビューで、1970年代末から1980年代初めごろのバンドと観客の関係について、「そのころのバンドのライブは、観客の顔つきも今とはまったく違い、楽しんでいるというよりも切実に何かを求め、ミュージシャンは神か教祖あるいはシャーマンであるかのように思いこみ、その人を通じて“何か”をつかみ取ろうという期待のようなものを感じた」と語ったが、それから10年が経過したバンドブームのころ、何かをつかみ取りたいと思ったキッズは、すぐにギターショップへ走るようになったのだ。
テクニックも何もなくても、伝えたいことがあればバンドをやるというのはパンクやインディーズカルチャーの本質と同じではあるが、この時点においては逆に作用し、バンドという存在のカリスマ性を削ぐ結果となった。
文/佐藤誠二朗
いつも心にパンクを。Don’t trust under 50
佐藤誠二朗(著)
「卑屈に生きるなと教えてくれたのはパンクだった」――ブレイディみかこ(作家)
ラフィンノーズがソノシートをばらまき、NHKが「インディーズの襲来」を放送し、キャプテンレコードが大規模フリーギグをおこなった1985年から今年で40年。
KERA(有頂天)、チャーミー(ラフィンノーズ)、HIKAGE(ザ・スタークラブ)、ATSUSHI(ニューロティカ)、TAYLOW(the 原爆オナニーズ)ら、1980年代に熱狂を生んだブームを牽引し、還暦をすぎた今もインディーズ活動を続けるアーティストから、大貫憲章(DJ、音楽評論家)、平野悠(「ロフト」創設者)、関川誠(宝島社社長、元「宝島」編集長)など、ライブハウスやクラブ、メディアでシーンを支えた関係者まで、10代からパンクに大いなる影響を受けてきた、元「smart」編集長である著者・佐藤誠二朗が徹底取材。日本のパンク・インディーズ史と、なぜ彼らが今もステージに立ち続けることができるのかを問うカルチャーノンフィクション。本論をさらに面白く深く解読するための全11のコラムも収録。