「大きくなったとき、お父さんは間違っていなかったと分かってほしい」——。
“ドーピング違反”の汚名を着せられ、クラブも組織も動かないなか、我那覇和樹が最後に背中を押されたのは、まだ4歳だった息子のひと言だった。
「我那覇問題 川崎は行動を起こせ」
世論が動き始めた。
5月に起こり、すでに終わったものと流布されていた我那覇のドーピング事件が、ここに至ってその過ちが国会にまで取り上げられるようになり、当初は専門的な知識がなく、何となく見過ごしていた人々もやがて注目をするようになってきた。
呼応するように識者も事件にまつわる矛盾を明確に指摘しだした。文科省がJリーグを聴取する11月21日、サッカージャーナリストの大住良之が東京新聞の連載コラム「サッカーの話をしよう」の中で「我那覇問題 川崎は行動を起こせ」と題して次のように書いている。
「自分が何をしていても、気になるのはオシム監督の容体だ。無事回復し、あの笑顔を見せてほしいと思う。『プレイヤーズファースト(選手第一)』という言葉がある。私がオシム監督を敬愛するのは、彼の言葉や行動の背景に若いサッカー選手たちに対する深い愛情があるのを感じるからだ。
―中略―さて、ことしの日本のサッカーで『プレイヤーズファースト』の精神に最も反しているのは我那覇和樹選手(川崎フロンターレ)をめぐる事件ではないだろうか。―中略―当初は『にんにく注射』などと報道されたが、明白な誤報だった。
後藤秀隆医師が施したのは、プロサッカー選手の健康を預かるチームドクターとしての純然とした、そして当然の医療行為だった。それが不条理な裁定につながったのは、世界反ドーピング機関(WADA)規程の運用間違いが、裁いた側にあったことが原因だった。
Jリーグから罰金1000万円の制裁を受けた川崎は我那覇選手ともども、この問題を『終わったこと』と表明していた。しかし、今月になって後藤医師が日本スポーツ仲裁機構に仲裁の申し立てをしたことで、また事態が動きだした。
何より重要なのは、我那覇選手自身がクラブに『仲裁申し立てに加わってほしい』という意思を示したことだ。―中略―川崎は今季のJリーグで最も『成長した』クラブだと私は思っている。
ホームタウンの人々の心にしっかりと根をおろし、ホームタウンの不可欠なメンバーと認知されたように感じられたからだ。それはサポーターの増加、そしてスタジアムの雰囲気の変化となって表れている。
しかし、ここで後藤医師を見捨て、我那覇選手の気持ちを踏みにじるならサポーターはどう思うだろうか。―中略―川崎は行動を起こすべきだ。それが本当の『プレイヤーズファースト』の考え方ではないか」
短い文章の中に事件の本質、そしてリーグとクラブが向かうべき方向がきっちりと示されている。プライオリティはこの言葉に集約される。
これより少し前、広島の寛田は、文科省のある役人から一本の電話をもらっている。
「先生、私たちが動けるのは、もうここまでです」
「どういうことですか?」
「いきなりすごく大きな圧力が上からかかってきて、この問題にはもう関わるな、ということになったんです。文科省はもう強く指導できないんです」
強く指導できなくなった、の意味がやがて判明してゆく。
「文科省はもう強く指導できない」の意味
21日、文科省において田中敏大臣官房審議官が、Jリーグ羽生事務局長を呼び、事情説明を受けた。文科省が問題視して動くということは異例のことであった。
鬼武チェアマンが「当事者間では解決済み」と言うのに対し、田中審議官は「違反であったかどうかにはいろいろな意見がある」という見解を示している。これもまた事態を看過できないと見た文科省の踏み込んだ発言であった。
監督官庁である文科省で行なわれた聴取の結果、JリーグはまずFIFAの懲罰委員会に裁定を求めて、それでも解決がされず我那覇か所属クラブの川崎が提訴を望むのならば、スポーツ仲裁裁判所(CAS 本部スイス)裁定には応じるという意向を示した。
先述したように、FIFAは各国のドーピングを裁く機関ではないから、ここで結論が出るはずがない。実際にはFIFAが裁くことはないのだが、一選手がFIFAの懲罰委員会にかけると言われればまず怯む。さらに、FIFAで解決されなければCASなら受諾するという。
JSAAもCASも提訴期限はすでに過ぎているが、紛争の当事者の両者が合意するなら仲裁は可能であった。しかし、この意向は平たく言えば、「JSAAでは応じないが、フロンターレか我那覇がCASまで持って行くのであればJリーグは仲裁を受ける」ということである。
文科省のここまでが限界だった。フロンターレはもう動かない。5万円で申し立てでき、日本語が使える国内のJSAAとは異なり、提訴の費用だけでも軽く1000万円を超えると思われるスイスの裁判所にまで、我那覇個人がたったひとりで事案を上げるというのはあまりに現実味のない、困難なことであった。チームドクターたちも、我那覇がCASにまで行くとはとても思えなかった。
シーズンはまだ終わっていない。JSAAという選択肢を消されて我那覇は苦悩する。「サッカー選手はサッカーに集中すべきではないか」「CASに行くとしたら莫(ばく)大(だい)な仲裁費用と弁護士費用を自分ひとりで払い切れるだろうか」「行くにしてもサポーターやファンは自分の行動を分かってくれるだろうか」
我那覇は、ただ降りかかってくる火の粉を払いたいだけであった。振り払うにあたり誰かが悪いとか、誰かと闘うということではなく、一貫してリーグの良心を信じて我慢強く対応してきた。
もともとJリーグを信じて任せておけば、どの選手も受けている普通の治療だった事が必ず証明されると思っていた。
結局、降りかかった火の粉は、誤って降りかけた人が回収するのではなく、我那覇自らが、自分と後藤ドクターの分まで振り払うしかなくなってしまった。当時の我那覇がとても悲しく孤独な気持ちだったことは想像するに難くない。
息子のために潔白を証明したい
家族でまず話し合った。看護師である妻の温子には、夫は絶対に過ちを犯していないという信念があった。闘うのならば、命懸けで支えるという覚悟はとっくにできていた。沖縄の実家に連絡をすると、母親は不安でたまらない様子だった。
「今起こっている事件が何か私にはよく分からないけれど、ここでまた何か行動を起こして裏目に出て、サッカー界を追放とかになってしまったら、どうするの」
仲裁に申し立てをすることで、子どもの頃から大好きだったサッカーが奪われてしまうことにならないのか。すでに制裁も終わっているし、このままではいけないの。母には、息子がJリーグという大きな組織を相手取って裁判を起こすということが、とても恐ろしく思えた。
米軍基地問題などを取材すると理解できるが、もともと、ウチナーンチュのメンタリティは争い事を好まない。琉球王朝時代に広く海外に知られた守礼の民の末裔はまず平和裏に事を進められるようにする。母との電話での話し合いで我那覇は黙り込んだ。
「やっぱり琉偉のことを考えると、潔白を証明したいと思う。大きくなって、お父さんはサッカーに対して間違ったことをしていなかったんだと分かってもらいたいんだよ」
息子の名前は琉偉。もちろん、琉球の琉からとった。4歳になろうとしていた。ある日、家の中で一緒にボールを蹴りながら、「大きくなったら何になりたい?」と聞くと「パパみたいなサッカー選手」と答えた。嬉しかった半面、考えざるをえなくなった。
この子が大きくなったときに自分にドーピング違反の汚名がまだつきまとっていたら……。琉偉はその息子と言われてしまう。いくら費用がかかろうとも、つらい思いを絶対させたくはない。母も最後は腹をくくった。
「そこまで考えているのなら、やりなさい。私も絶対に信じているから。沖縄のバアバだって琉偉の将来を考えて応援してるよ」
文/木村元彦
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争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール
木村 元彦

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