今や東京において、確固たる地位を築いている吉本興業。しかし、つい30年ほど前までは、そうではなかったというのだから驚くほかありません。


転機となったのは、ダウンタウンのブレイク。以降は、極楽とんぼ・ロンドンブーツ1号2号・森三中・オリエンタルラジオなど、数々のスターを輩出。東京でも繁栄の歴史を歩んできたのはご存じのとおりです。

もっとも、1995年に渋谷公園通り劇場がオープンしたくらいまでは、「吉本が東京進出してきた!」などと、メディアで騒がれていたものです。今では当たり前のように、吉本のタレントが全国放送のゴールデンタイムを占拠している実情をみると、隔世の感があります。

今回紹介するのは、こうした吉本の芸人が東京で市民権を得る少し前の話です。


若き日の今田耕司と中山秀征が共演した『殿様のフェロモン』


今田耕司と中山秀征。2人がまだ若手だった頃、『殿様のフェロモン』(1993年10月~1994年3月)というフジテレビの深夜番組で共演していました。この番組へ出演するにあたり、双方の意識には天と地ほどの差があったといいます。

中山は当時から、ドラマにバラエティにと多方面で活躍する売れっ子でした。番組プロデューサーからは「女の子に囲まれながら、お酒も飲んで、楽しい感じでやりましょう」と、番組コンセプトを伝え聞き、気軽なノリでオファーを承諾したそうです。

楽屋にこもり、シャドーボクシングをしていた今田


一方の今田はというと、中山とは真逆に、なみなみならぬ意欲を燃やしていました。

というのもこの時、今田は東京に来たばかりで、レギュラーも『ごっつええ感じ』くらいしかなかった時代。そんな折に舞い込んだ新レギュラー、しかもMC起用とあっては、鼻息荒くなるのも当然というものでしょう。

さらに、ダウンタウンから「やってこい」と発破をかけられたために、戦闘モード全開。「自分はごっつ代表であり、大阪代表」。そんなモチベーションで生放送に臨んでいたと、後に本人が語っています。

戦いの前に、馴れ合いなど不要と思ったのか。本番前の今田は、隣の楽屋で共演者を呼び寄せてワイワイと談笑する中山を尻目に、一人で楽屋にこもってシャドーボクシングをしたり、部屋を真っ暗にして精神統一をしたりという、求道者めいた行動まで取っていたとのことです。

90分の生放送は常に「つぶし合い」だった


東京と大阪、遊びと本気……。すべてが正反対の2人は当然、かみ合うはずもありません。

今田が言うには、リハーサルでは一言もしゃべらず、90分の生放送は一貫して「つぶし合い」の連続だったのだとか。

たとえば、番組スタート当初、こんなことがありました。
中山はフレンドリーにも「今週から今田くんのことを“こうちゃん”と呼ばせてもらいます!」と宣言。続けざまに「だから僕のことは、“ヒデちゃん”と呼んでください!」とお願いするも、今田は明らかに嫌そうな顔をして、結局いつまでも「中山くん」呼ばわり。
共演していたナイナイの岡村から「あの時の今田さんはイヤでした」と言われるのも無理はないというものです。

40代になってから和解した2人


番組終了後、当然のように、中山と今田は共演することはありませんでした。
その後、一切関わりのないまま17年余りの月日が過ぎたある時、共通の知り合いであるザブングル・松尾陽介の仲介により、ついに2人ははじめて飲みに行くこととなったのです。

若さゆえの角は取れ、40歳を過ぎて丸くなった2人。多少の気まずさも徐々に和らいだようで、気付けば当時の想いを忌憚なく打ち明け合っていたといいます。この奇跡の邂逅により、すっかり2人は和解。1ヶ月後には早速『27時間テレビ』で共演し、2013年には女性週刊誌で対談も実現させています。

その対談で中山は「初めて“真面目にお笑いを作る”ことを今ちゃんから学ばせてもらった」と発言し、今田は「『あのときの俺は間違ってた』って今はハッキリ思う」と、自身の非を認める発言をしていました。


東京と大阪がバチバチやってた時代も今は昔。打ち解けた雰囲気で話す2人の東と西の芸人に、いがみ合っていた時代の残滓などどこにも見当たりません。
(こじへい)


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