突然ですが、筆者の名前は「木村吉貴(きむらよしたか)」といいます。子供の頃から、親しい友人・知人たちから「きむ」の愛称で呼ばれてきました。
妻にだけは「よっくん」と呼ばれていました。いや、呼んでもらっていました。僕からお願いして。それももう、昔の話ですが……。

それはともかく、愛称とは実に良いものだと思う。呼ぶ側と呼ばれる側の距離をグッと近づけてくれる。


ところで、いま鎌倉市では、市内三カ所の海水浴場の愛称を公募しているという。海水浴場に付ける愛称の公募ってそれまたなぜ? コトの真相を追うべく、鎌倉市に取材をしてみた。

鎌倉市観光商工課担当課長で、生まれも育ちも鎌倉という、生粋の“鎌倉っ子”である齋藤和徳さんに話を聞いた。「鎌倉の魅力は、自然あり、歴史あり、最先端のグルメやファッションなど現代的なスポットあり、という多様性だと思います」と齋藤さん。

ところで、そんな鎌倉の魅力のひとつである海水浴場の、愛称を公募されていると聞きました。

「はい。
これは、昨年募集した、海水浴場に対するネーミングライツに端を発するものです」との齋藤さんの言葉に筆者は驚いた。海水浴場のネーミングライツ?

ネーミングライツとは、「命名権」のこと。日本では特に、野球場や文化ホールなど、施設に対する命名権のことを指す。ネーミングライツ自体は1970年代に米国で生まれたが、日本国内でビジネスになったのは、1990年代後半からとされている。思うに、日本人には少なからずネーミングライツに対する抵抗感があるように思う。たとえば、プロ野球の昔ながらの球場名が、ネーミングライツによって変わってしまうと、なんとも寂しいような悲しいような気持ちになってしまうのがファン心理ではないだろうか。


鎌倉の海水浴場に、ネーミングライツか……。家族みんなで良く遊びに行く、由比ガ浜が、腰越が、材木座が、別の名前になってしまうのだろうか。

「いえ、別の名前にはならないんですよ」と齋藤さん。でも、ネーミングライツって、権利を獲得した企業が自由に名前を付けて良い、というもの。その企業の意向次第では、別の名前にならないとは限らないのでは。

「日本におけるネーミングライツとは、特に施設に対する命名権ですよね。
では、由比ガ浜や腰越、材木座は、施設でしょうか?」

……施設じゃないですね。地名だ。

「そう。その海辺のことは、由比ガ浜海岸、腰越海岸、材木座海岸といいます。今回のネーミングライツで、その地名は一切変わりませんし、変えることもできません」と齋藤さんが教えてくれた。そうか、今回のネーミングライツは、海岸ではなく海水浴場という施設に対するものですもんね。


「その誤解がひとつ。もうひとつ、伝統ある鎌倉の海水浴場の名前を売ることに対する誤解が、鎌倉市民中心にあったのは事実です」と齋藤さん。ネーミングライツによって地名が変わらないことは理解していても、昔ながらの海水浴場の名前が変わってしまうことは、たとえばプロ野球の球場のネーミングライツと同様に、慣れ親しんだ地元民にとっては抵抗があるものだろう。

海岸はそもそも国のものであり、神奈川県内の海岸を管理しているのは県だ。そして、夏季に入り海開きが行われてからの約二カ月間を、たとえば鎌倉なら鎌倉市長が開設者となり、海水浴場として運営される。つまり、鎌倉の海水浴場とは、毎年約二カ月間だけ利用できる、期間限定の施設なのだ。
その施設を運営するのは鎌倉市なので、実際は市が自由に名前を付けたり、変更しても、まったく問題は無い。

少子高齢化が進み、税収の伸びに期待はできない。そのため、自治体は支出を減らしつつ、サービスを維持するために、別の形でお金を確保する必要がある。そのひとつが、ネーミングライツというわけだ。

「今回の契約条件として、年額100万円以上のネーミングライツ料と設定させていただきました。『わずか100万円で名前を売るなんて情けない』といった市民からの批判もありました」と齋藤さん。「ですが、パートナーが決まってからは、批判の声も無くなっていきました」

個人一名と企業八社がネーミングライツ・パートナーとして応募する中、選ばれたのは、鎌倉のおみやげとして全国的な人気を誇る「鳩サブレー」を製造・販売する「豊島屋」だった。

「今回は地名の『由比ガ浜・腰越・材木座』を残すことを条件にしていましたが、これに加えて豊島屋さんは、企業名も商品名も付けるつもりはなく、このネーミングライツを広告・宣伝目的とは考えていない、あくまでも鎌倉の海水浴場を良くすることが目的だと伝えてくれたんです」と齋藤さん。

結局、年額1,200万円の10年契約でネーミングライツを獲得した豊島屋。この、鎌倉に根付いた有名企業がパートナーに決定したこと、また、豊島屋のネーミングライツに対する考え方を知り、鎌倉市民の多くがホッと胸を撫で下ろし、批判の声も無くなっていったという。

「それでも、お金のために公的な施設の名前を売るということに対して、抵抗が無くなったというわけではありませんでした。そういう方の中には、市の予算に豊島屋さんからご提供いただくお金が上積みされると思っていらっしゃる方もいますが、誤解です」と齋藤さん。

鎌倉市の海水浴場に例年あてられる予算は、約4,800万円。これを、由比ガ浜・腰越・材木座の三カ所で分配し、約二カ月の開設期間をかけて、各種設備の設置や監視員の雇用など、安全な海水浴に欠かせない環境づくりにあてている。豊島屋が提供する金額は、それら予算への上積みではなく、予算内に組み込まれる形で使用されるという。つまり、市のお金を増やすためではなく、減らすためのネーミングライツ、というわけだ。

「湘南の海水浴場は、年々風紀が乱れるようになってしまいました。子供連れではもう遊びに行けないという声も多いです。そこで、市と海の家とで協力して、海水浴場のルールを設けました。若者だけでなく、また家族連れだけでもなく、みんなで楽しめる鎌倉の海水浴場を目指していきたいと思います」と齋藤さん。

そして、粋すぎる豊島屋は、さらに粋なことをする。海水浴場の愛称公募がそれだ。「豊島屋さんは、自分たちで海水浴場に命名するのではなく、その役目を、鎌倉の海を愛する人々に任せてくれたんです」と齋藤さん。(2014年3月3日〜3月28日まで募集中。詳しくはこちら

この愛称募集においても、由比ガ浜・腰越・材木座の地名は必ず盛り込むことが条件となっている。伝統ある「由比ガ浜海水浴場」「腰越海水浴場」「材木座海水浴場」と大きくかけ離れた名前になる心配は不要のようだ。

愛称は、親しみをわかせ、愛情を芽生えさせる。自分たちで考え、自分たちで名付ける、海水浴場の愛称。これまで以上に市民に、観光客に親しまれ、愛される鎌倉の海水浴場になるのではないか。
(木村吉貴/studio woofoo)