“小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後から押す役目を担っていると思っているのです”
『ニッポンの書評』の第1講にでてくる豊崎由美の書評観である。


目次を紹介しよう。

第1講 大八車(小説)を押すことが書評家の役目
第2講 粗筋紹介も立派な書評
第3講 書評の「読み物」としての面白さ
第4講 書評の文字数
第5講 日本と海外、書評の違い
第6講 「ネタばらし」はどこまで許されるのか
第7講 「ネタばらし」問題 日本篇
第8講 書評の読み比べ―その人にしか書けない書評とは
第9講 「援用」は両刃の剣―『聖家族』評読み比べ
第10講 プロの書評と感想文の違い
第11講 Amazonのカスタマーレビュー
第12講 新聞書評を採点してみる
第13講 『IQ84』一・二巻の書評読み比べ
第14講 引き続き、『IQ84』の書評をめぐって
第15講 トヨザキ流書評の書き方
対談 ガラパゴス的ニッポンの書評―その来歴と行方


長年の経験にもとづいて考えていること感じていることをズバリと書く。縦横無尽に、そして軽妙に、今現在の日本の書評に関する著者の考えがあぶりだされてくる。

“さて、第2講で「粗筋紹介も“評”のうち。極端な話、粗筋と引用だけで成り立っている書評があってもいい」と断言しながら、第3講では「対象作品の面白さ(もしくはダメさ加減)が伝わる、読んで面白いゲイのある内容になってるなら、粗筋紹介がまったくない書評であってもかまわない」と、てのひら返しと思われかねない、あっちへフラフラこっちにフラフラ落ち着きのない論を展開しているわたしですが、「面白い書評はあっても、正しい書評なんてない」という立場なんですからしかたありません”
という宣言があるように、あっちへフラフラこっちにフラフラするのが本書の最大の特徴だろう。

随所に入るエクスキューズは、「今の考えです」「変わるかもしれません」ということをたびたび強調する。

“その内容と方法と文章が見事でありさえすれば立派な書評だと今のわたしは考えているのです。”
“(一〇年はどう思っているのかわかりませんが)”P109
“(将来、また意見が変わるかもしれませんが)”P53


書評観が変わったことも披瀝する。
“「『マゴット』はネタばらされたからって、つまんなくなるような脆弱な小説じゃねえよ」と。(…)徐々にわたし自身の考えも変質していったんです。前回にも述べましたが、「レビュアーはこれからその本を読む人の読書の興をそいではならない。勘所を明かさないで、その本の魅力を伝えるのがレビュアーの芸である」という考えに。


矛盾しているのではないかというところも多い。
“いや、正直いえばかつてはありました、良い書評の基準が。”の後に、新聞書評を特A~Dの五段階で評価したり。

“もっとスペースが与えられれば、よりいい書評が書けるのにと思ったことはありません。思ったら負けだと考えています。”と書きつつ、その後に、
“かなりシャープに論を展開しても一〇〇〇字を下回る分量ではとても魅力を伝えきれない内容の濃い小説もある。
(…)もちろん、わたしは頑張らなければならないんですが、しかし、八五〇字はパワーズを遇するのにふさわしいスペースとはいえますまい。”
と書く。

ネタばらし問題で“これからその本を読む人の読者の興をそいではならない”と書きながら、『ロマン』『日の名残り』の“ネタばらし”は、警告なしに出てくる。


このフラフラや矛盾は、だが、ダメではない。
理屈の書評観ではなく、経験を通して、変わってきた、フラフラしてきた、今の考えとしての書評観。
いやいやいや、軽く「経験を通して」などと書いたが、豊崎由美は、およそ二十年書評を書き続けているのだ。
「今の」といっても、二十年の重みを背後に持つ。
しかも「月に三〇本締め切りがある」時代もあり、年数だけじゃなく数もすごい。今も「GINZA」「本の雑誌」「TV Bros.」など連載多数。その膨大な書評の一部が収録されている『そんなに読んで、どうするの?』『どれだけ読めば、気がすむの?』『正直書評。』や、本を星座に見立てて紹介する『勝てる読書』、文学賞について大森望と歯に衣着せぬ対話を繰り広げる『文学賞メッタ斬り』などを読むと、その圧倒的な読書量、書評量に驚く。
ジタバタする大きな試行錯誤の果てに、新しい見方をつねに発見してきた「二十年間+今の書評観」だ。


って感じで終わろうとしてたけど、どうもしっくりこないので書きますが、あれです。
ぼくは、トヨザキ社長(豊崎さんは社長じゃないけど、ふだんそう呼んでるのです)と、ともだちで(書評観の違いでよくケンカします)、しかもこの『ニッポンの書評』には、ぼくの書評が引用されてたりする。ので、紹介する立ち位置がむずかしいむずかしい。
知人の本は(なれ合いに見えるので)紹介しないという厳格な人もいるけど、ぼくはそうじゃないので、こうやって紹介しています。
でも、だからこそ、なれ合いになっちゃいけないと思ってる。ともだちでも、好きな人の本でも、つまんなかったら、紹介しない(ごめんなさい)。

おもしろかったら紹介する。
他のノイズは入れない。知人だろうが、なんだろうが、おもしろい本かどうか、それだけ。

そして、怒られるかもしれないけど、書く。
本書の、一貫してない、矛盾しているように思える展開から浮かびあがってくることがひとつある。それは、トヨザキ社長がもつ「本に対する愛の深さ」

“書評は読者に向かって書かれなければならない”とある。
だけど、トヨザキ社長の書評は、まず本に向かってるように思える。
たとえば、新聞書評を全チェック&評価するときの基準で最悪のDはこう書かれる。
“取りあげた本の益になっているどころか、害をもたらす内容になってしまっている”
まず本があるのだ。
ぼくだったら「読者の益になって~」と書くだろう。だけど、ここでは本の益になってるかどうかがチェックポイントとしてあげられる。
もちろん、その先に読者がいる。でも、まずは本に向くのだ。
「同じことじゃないか、結局は読者に向かって書いているんだ」と反論されるかもしれないけれど、“わりあい保守的で端正な書評の書き手”でありながら、トヨザキ社長の書評や書評論が唯一無二の独自性を持つのは「本に対する愛の深さ」であり、なによりもまず本に向かって書いている姿勢だ。
矛盾も一貫性も、なにもかも飛び越える「本に対する愛」だ。理屈も通じやしない。
愛って、やっかいだけど、最強だ。
だからケンカしても勝てないなーって思う。(米光一成)