ポケモンGOが日本で配信されて 10日たった。
配信1日にして、町の人々の行動パターンが変わってしまった。
もちろんそのなかには、飽きてやめてしまう人もいるだろうから、配信直後のインパクトはなくなっていくだろう。
けれど、それはそれだけ、人々の生活のなかに、ポケモンGOが自然に浸透していく過程なのかもしれない。

これだけ多くの人がポケモンGOにはまる条件としては、Niantic社のIngressがすでに作り上げた拡張現実(AR)プラットフォームと、スマートフォンの普及、だけではなくて、もともと他のプレイ形態で浸透していた『ポケットモンスター』のコンテンツ力も、当たり前だが重要なファクターだったはずだ。
任天堂がゲームボーイ版『ポケットモンスター赤』『ポケットモンスター緑』をリリースしてから、今年で20年になる。

最初期のポケモン論


このタイミングで、もっとも初期に出たポケモン論のひとつ、宗教学者・中沢新一の『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』を読み返してみた。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

この本は、『赤』『緑』が発売された翌年、1997年(TVアニメ『ポケットモンスター』の放映が始まった年)に、岩波書店の《今ここに生きる子ども》というシリーズ本の1巻として、『ポケットの中の野生』の題で刊行された。
その後2004年、『赤』『緑』のゲームボーイアドバンス移植版と見なされる『ポケットモンスター ファイアレッド』『同リーフグリーン』発売と同時に、本書は「ポケモンと子ども」という副題をつけて、新潮文庫から刊行された。
文庫版の解説は、ポケモンの生みの親である田尻智(株式会社ゲームフリークの代表取締役社長)。

本書が着想の源としているのは、
・〈野生の思考〉論
・〈対象a〉説
・贈与論
の3本柱だ。

野生の思考


副題に入っている〈野生〉とは、構造人類学の生みの親であるフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の主著『野生の思考』(1962。大橋保夫訳、みすず書房)からとられている。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

野生の思考とは、人類が、生息する環境において、自然界の個々の対象を、記号として処理する思考、といえよう。
目の前のものごとどうしの間に、どのような関係があるかを考えたうえで、それによく似た関係を持つべつのものごと群との類推から、目の前のものごとを意味づけして、理解可能な形に再構成・構造化する。これが野生の思考のはたらきだ。


古代人が生み出した神話、近代化されない社会における信念のシステム(近代人なら「迷信」と呼んで片づけてしまいそうなもの)、占星術や錬金術、そして近代科学も、スタート時点ではこの野生の思考を原動力としていた。

中沢新一は、当時のゲームボーイ版『ポケットモンスター赤・緑』の世界設定に、〈野生の思考〉があらわれていることを指摘した。
ポケモンの分類は〈子どもの科学〉(後述)であり、ポケモンの属性どうしの相剋関係は、じゃんけんとか、易における五行説と同じように、〈野生の思考〉ならではのシステムを持っていたのだ。

ウルトラ怪獣、インベーダー、ポケモンと〈対象a〉


中沢は、オーストリアの医師で精神分析の創始者であるジークムント・フロイト(1956-1939)の「快感原則の彼岸」を踏まえて、つぎのようにいう。
遊び(ゲーム)のさいちゅう、〈子どもは象徴の力によって、自分にはどうしようもない現実を、自分自身の能力でコントロールできるものにつくりかえようとしている〉のだと。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

ここでフランスのフロイト派ジャック・ラカン(1901-1981)の〈対象a〉概念が出てくる。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

中沢は言う──〈意識の「へり」の部分に、さまざまなかたちをとってあらわれてくる、なんとも名づけがたい対象〉、それが〈対象a〉。

〈対象a〉はどこから出てくるのかわからず、言葉や意味によってしっかり固定された役割をまだ与えられていないなにかであり、それはまだ形態が定まらない生命そのものでもあるという。

『ウルトラマン』の怪獣たち、1978年に爆発的に流行した「インベーダーゲーム」のインベーダー、そして『ポケットモンスター』のポケモンたちは、見る者、プレイする者に、この粘液的な〈対象a〉の感覚を生々しく呼び覚ます、と中沢は言う。

そして〈心理的に取扱いの難しい「対象a」の領域を知的に昇華することによって、それをうまく自分の精神の構造の中に取り込もうとするためにおこなわれる、精神分析行為の一種〉、それが先述の〈子どもの科学〉という〈野生の思考〉なのだ。
ポケモンでレヴィ=ストロースとラカンとがつながるとは……。

デジタルゲームにおける新しい贈与のかたち


20世紀の社会科学で取り上げられたトピックのひとつが、フランスの社会学者マルセル・モース(1872-1950)や、ポーランド出身の文化人類学者ブロニスワフ・K・マリノフスキ(1884-1942)が問題とした「贈与」だ。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

さまざまな社会で見られる贈与という現象は、人間は経済的な利潤を追及する存在である、という人間観を相対化する。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

金銭という共同体の共通単位を使って買ったものと違い、人にもらったものは、〈贈り主の一部が必ず付着している。
品物と人格が一体となって、じつは贈与品というものができあがっている〉。

中沢は、当時のゲームボーイどうしの接続において、〈「ポケモン」という生き物が、通信ケーブルを通して他の人のゲーム機の中に送り込まれていく不思議な感覚〉について書いている。

〈野村や森や洞窟で自分が捕まえて育てた「ポケモン」には、「親」である自分の名前とIDがつくようになっている。こうして名前のついた「ポケモン」は、通信交換によって誰かほかの人のシリコンチップの中に収められたとしても、いつでも名付けの「親」の名前が表示されるようになっている。
〔…〕こうして、交換された「ポケモン」には、それは最初に育てたプレイヤーの人格の一部が付着することになる〉

中沢は『ポケットモンスター図鑑』(1996)から、『ポケットモンスター』のキャラクターデザインを担当した杉森建(株式会社ゲームフリーク取締役)が『ドラゴンクエスト』のアイテム「ふしぎなぼうし」を2個持っていると知った田尻智が

〈二つも持っているなら、一個欲しいな、と単純に思った〉

のがポケモントレーディングシステムの着想のもとだった、という話を引用しつつ、デジタルゲーム以前の世代の少年文化における戦後のメンコ遊びや、高度成長期の「仮面ライダーカード」の例を引き、つぎのように言う。

〈子どもたちは、自分の大切にする「対象a」を他の子に贈与することで、お互いの間に何かの流動を作り出そうとしたのだろう〉
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

〈メンコやカードや「ポケモン」のつまったモンスターボールを、ほかの子と交換することによって、二人の間を、「ことばの体系に捕獲されなかった、象徴化の残りもの」が流動しあったのである。
その時には、大人たちの言う「友達と仲良くしなさい」というのとは本質的に違う、もっと深いレベルのコミニケーションが、短い時間のうちに発生する〉

大塚英志が「ビックリマンシール」の世界観を分析した『物語消費論』がトレーディングカードの世界観の分析だとしたら、『ポケットの中の野生』のほうは、贈与・交換といった行為の分析だということができる。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

モンスターボールを使った「母なるもの」からの適正な分離


〈対象a〉の〈ねちょねちょ、べたべたという粘液の感覚は、タイプや母乳のような、幼児と母体との接触につきものの感覚〉で、蛙の卵を見たときにに蘇ってくる感覚がそれであり、また怪獣の皮膚がしばしば粘液状のものに覆われていることも、この〈対象a〉の感じであるらしい。
モンスターボールは、そのモンスターの皮膚に直接接触せずに持ち歩くことを可能にした。

〈「モンスターボール」が介在することで、子どもはその感覚からのスマートな分離ができるようになる〉
〈子どもは「対象a」から薄い膜1つ隔てて分離されていながら、いまやそれを手に持ったりリュックにつめて、持ち運びもできるようになった〉

〈『ポケモン』に夢中の年代の子どもたちは、この〔母体からの〕分離ということを、重大な心理の問題として抱えている。いっぽうでは、母親との肉体的心理的一体状態の記憶を抱え、もういっぽうでは、目前にせまりくる社会性の受入れの要請を前にして、子供は「対象a」との間に適正な距離をつくりださなければならないという悩みを抱えている〉

中沢によれば、そういう年代のユーザたちに向かって、『ポケットモンスター』というゲームは、つぎのようなメッセージを発しているという。

〈さあそれを「モンスターボール」に包んで、分離を果たすんだ。でもそれを不用意に捨てたりしてはいけないよ。
それは君たちの生命の源泉なんだからね、いつも自分の手で持っていなくちゃいけない。〔…〕分離が果たされて、適正な距離がお互いの間に発見されると、データ化も可能になる。〔…〕君の人生がうまくいくかどうかは、まったくその適正な距離の発見ということにかかっているんだからね〉

ではポケモンGOにハマっている大人は?


20年前、ゲームボーイの主要顧客は小学校1年生から4年生だったという。
いっぽう20年後、むしろ大人がポケモンGOにハマっている(小学生のスマートフォン普及率がもちろん大人より低いというだけの話だが)。
世界じゅうで大人も、〈目前にせまりくる社会性の受入れの要請を前にして〔…〕悩みを抱えている〉のだろうか?

その要請されている社会性とは、異文化(たとえばイスラーム)とのつきあいだろうか?
あるいは日本だったら、再軍備やTPPなのだろうか?
このあたりは深読みするときりがない。

また、このゲームにはまっている人にたいして、やくみつる氏のような感情的な反撥が起こってくる理由も、中沢説に冗談半分で乗っかってみても、なんとなく説明できるような気がするからおもしろい。
やくみつる氏は、がんばって自分ひとりで母親から自立して社会化したのかもしれない。ほかの人の自立・社会化がゲームの助けを借りて手間と時間を取っているのを見て、いらいらしてるのかもしれない。
なんてね。

人の実存的不安は人それぞれなら、人の趣味(=実存的不安への対処のしかた)も人それぞれ。
20年前に「ゲームボーイ買ってよ。みんな持ってるんだから」と言った小学生が親に言われたひとこと、
「よそはよそ、うちはうち」
を、やくみつる氏がいま言われる側になってるのかも。

読んでいて感じる安心感


本書は本文150頁足らずの、決して難しくない本なのに、読み終わるのに5日もかかってしまった。
この本を開くと、なぜか眠くなる。ちょっと読んではすぐに眠ってしまい、また目が覚めて起きて読み続けようとするのだけれど、睡魔に屈してしまう。

この本が退屈だというのではない。この本は大いに楽しめる。
眠くなるのは、どうやら、この本が「自分のなかの子ども」にもたらしてくれる安心感が、そうさせるようなのだ。

それにしても『ポケットの中の野生』も、それからいまNHK-BSで再放送している「てるてる家族」の原作『てるてる坊主の照子さん』(なかにし礼)も、品切はしょうがないとしてもKindleもない(2016年7月末時点)なんて、新潮文庫はなにをしてるのだろう。
「ポケモンGO」から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか

(千野帽子)