大ヒット中の「ヱヴァンゲリヲン劇場版:Q」と同時上映されている「「巨神兵東京に現わる」。

今夏から秋にかけて東京都現代美術館で開かれた展示企画・「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(東京展の会期終了、地方巡回検討中。
愛媛県美術館で13年4月3日〜6月23日開催)で上映されたこの映画が、「巨神兵東京に現わる 劇場版」として、映像と音声を新たに調整し、「ヱヴァンゲリヲン劇場版:Q」と同時上映されている。
東京に観に来ることのできなかった人も、今や全国で巨神兵に心震せる幸福な時間を過ごしていることだろう。


すごいな、これ、どうやって作ったんだろう!
と魅入ってしまう映画が「巨神兵東京に現わる」。
短編でありながら壮大な世界叙事詩は、まさに「神は細部に宿る」映画だ。
漫画およびアニメ「風の谷のナウシカ」に登場した巨神兵が、三次元に屹立し、しかも風の谷というファンタジーの世界から現代の東京へと時空も超えたのだ。


この短編を生み出したのは、プロデューサーである、エヴァの庵野秀明とジブリの鈴木敏夫、監督である「のぼうの城」(犬童一心とのW監督)も好評の樋口真嗣というBIG3。

彼らは、デジタル全盛の今、あえて、アナログの特撮技術の粋を尽くし、マグマのように濃密で熱のある映像を作り出した。さらにそこへ詩的な語りが加わり重層的に。その言葉は舞城王太郎が書き、林原めぐみが魅惑のウィスパーボイスで語る。
神を見た、というのはこのことか、終映後の茫然自失感というのか多幸感というのかはなかなか味わえないものである。

ミニチュアで緻密に再現された東京の街に、ある日突然、巨神兵が現れる。その異様さがとてもコワい。
閃光、爆発、巨神兵、飛び散る物体、巨神兵、立ち上る雲、巨神兵、瓦礫、炎、巨神兵。阿鼻叫喚と祈りが絡み合うように、巨神兵。その美しい地獄の虜になる。

そして、さらに、神よ!と天を仰がされたのは、この巨神兵の不気味な動きに、文楽の動きが参考にされていたという事実であった。
特撮博物館では、それはメーキング映像や図録で明かされていた。
本編も面白いが、展覧会会場で流していたメーキングが面白く、爆発のさせ方、キノコ雲の作り方、電線の切れ方、ミニチュアと実写の混ぜ方……などなど、樋口監督と優秀な特撮スタッフがアイデアを試行錯誤し、一秒一ミリのズレも許されないスナイパーのような精密さで仕掛ける、彼らの機敏な身体性は、注目に値する。


その中でも、スタッフの「文楽を参考にしよう」という言葉が興味深い。

文楽とは、大阪で橋下徹氏がツイッターや会見などで「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」「お客さんあっての芸であり、文化でしょうそれを、お客さん抜きに、これが伝統なんだから理解しろ!という態度では絶対に根付かない」などと厳しい発言を浴びせ、補助金削減を宣言した伝統文化だ。
その後、文楽の技芸員と橋下氏との対話などを経て、11月26日の時点で文楽協会が補助金実績連動方式(興行実績によって補助金の支給額が変動する「インセンティブ方式」)で合意された。

また、大阪・国立文楽劇場の11月公演「仮名手本忠臣蔵」の入場者総数が、前年比約60%増となり、橋下氏の苦言が逆に効果を成したのでは? という皮肉な意見もある。
一方、演劇や映画で多くのヒット作を生んできた劇作家、脚本家にして演出家の三谷幸喜氏も今夏、文楽「其礼成心中」を演出するなど、いずれにしても、文楽は、今、注目を浴びている。

文楽について簡単に説明すると、太夫(浄瑠璃〈物語〉を語る)、三味線(音楽を演奏する)、人形遣い(人形を使って演技する)の三位一体で成り立つ芸術で、江戸時代から続いていて、今や世界無形文化財にもなっている。

人形遣いは3人チーム制で、首と右手、左手、両足を、各自担当する。それによって細やかな動きが実現するのだが、この方法論が、巨神兵立体化のヒントになっていた。

「巨神兵東京に現わる」のプロジェクトが発表になった時、「巨神兵 宮崎駿」とクレジットされていて、まさか、宮崎駿氏が巨神兵を演じるの?なんて妄想をしたものだが、宮崎駿氏ではなく文楽が巨神兵を動かしたなんて!

「巨神兵東京に現わる」の監督補と特殊技術統括を務める尾上克郎氏に、なぜ文楽だったのか?を聞いてみた。
尾上氏は「のぼうの城」の特撮監督やセカンドユニットの監督もつとめている。
ちなみに、こちらのCGを使わずアナログな特撮を使ったシーンも見応えあり。本人のツイッターによると、
「「のぼうの城」の特撮。
全部ロケです。スタジオで撮ってません。水もほとんどホンモノ。ミニチュアぶっ壊しました。泥水を循環させました。CG全盛のこのご時世に何やってんだと言われても構いません。
気に入らないところがありましたら、それは私の責任です」だとか。
では、巨神兵の話を聞いてみよう。

ーー巨神兵の動きに、文楽の手法を採り入れたわけは?

尾上  そもそもこの映画ではCG全盛のこのご時世に「CG一切禁止』という足枷を我々が自ら課してしまったことから始まります。今夏開催された「特撮博物館」のための展示映像として企画されたもので、劇場公開の予定も当初は無かったと記憶してます。ミニチュア技術を始めとして、失われようとしているアナログ特撮の技術を後世に伝えること、特撮の面白さを改めて広く皆さんに知ってもらうこと、そして、もう一度アナログ特撮の技術を拾い集めて再構築して、次の時代に生かせるか試してみようという狙いもありました。なのでアナログ的手法ですべての映像を作り上げなければならないというルールがまずあったんですね。そこで、巨神兵は造形物を作って何らかの方法で動かして撮影せざるを得なくなったわけです。おかげで本当に大変な苦労をすることになったんですが、とても幸せな時間を過ごしました。
巨神兵の動かし方の大元のヒントは樋口監督が言い出したものです。ゴジラとかウルトラマンの怪獣みたいに人間を〈着ぐるみ〉に入れて動かすというやり方もありますが、この方法は、まず人を中に入れるという制限があるので、どうしてもデザイン的に妥協せざるを得ない所が出てきます。巨神兵はデザインが最も重要な要素のひとつで、コレに関して妥協することが許されなかったのです。
そこで、樋口君といろいろ相談の末、巨神兵を外部から人が操作する文楽的手法に所に目をつけたわけです。

ーー文楽にもともと興味はあったのですか?

尾上  文楽における確立された「スタイル」といいますか、外部から人形を操作すると言う物理的な方法論だけではなくて、観客にたいして黒子を完全に意識させない方法論というかルールについて深い興味を抱いていました。
 特撮はそもそもゴムの着ぐるみが暴れまわっても観客はその世界観を許容し陶酔するという環境を持っています。すなわち文楽的ルールに則った発想が通用する数少ない世界なわけです。今回の『巨神兵東京に現わる』ではこの発想が演出的にも必要であり、様々な課題の答えになるのではないかと思いました。

ーースピルバーグによって映画化もされている舞台「戦火の馬」や、ミュージカル「ライオンキング」などの動物の動かし方が、文楽を参考にしているということも意識されていましたか?

尾上   特に意識したということはないです。西洋の映画などでは、複雑な機械を仕込んで動物などの動きを再現しようとするアニマトロニクスの手法が発達しています。これ等の表現はあくまでも〈ホンモノ〉に見えることを主眼にしています。
しかし、文楽人形の動きは感情のエッセンスをデフォルメして表現することで成立しています。決して生物的なリアルさはありませんが、表現しようとする感情や意味は伝わるのです。その時、観客は〈操作している黒子〉ではなくで〈演じている人形〉を見てますよね? 人形遣いの方々の卓越した操作技術と演技力が観客の目をそのように誘導しているのだと思いますが、どう考えてもあの不自然な状況を観客は許容しています。たぶん、これが文楽鑑賞の重要なルールだと思うのです。言い換えれば「文楽』というのは観劇のルールを観客に自然に意識させ、許容させなければ成立しないものなのではないでしょうか。これは特撮も同じです。怪獣映画を楽しむには、ミニチュアの街のリアルさに感心する前に着ぐるみを巨大怪獣だとする大前提、つまり特撮のルールを許容しなければなりません。
これはこの映画にも言えることでした。巨神兵は想像上の存在です。生物ではありません。どちらかと言うと神に近い存在です。そこにリアルな生物的な動きは必要ありません。むしろ、文楽のようなルールに則った表現が必要でそのルールを観客に許容してもらう必要があったのです。実は、これこそが特撮の演出にとってとても大事なことなんじゃないかと思います。
舞台「戦火の馬」やミュージカル「ライオンキング」も、アニマトロニクス的発想では観客の感情に直接的に訴える演技をさせることが極めて難しいことに気づいたのでしょう。よく出来たCGにも似たようなことが言えるのですが観客を`感心`させることは出来ても〈感動〉させるのはとても難しいものです。
そこで彼等はリアルさよりも、感情を表現することに主眼をおいた文楽的な手法を採用したのではないでしょうか。
 文楽の人形遣いの仕事も「操演」と呼びますよね? 特撮の世界でも、ものを動かし操作する人のことを「操演部」といいます。かく言う私も操演部の出身です。操演という言葉には「操作」だけでなく「演ずる」という意味が含まれます。
このように特撮の根幹には、文楽で培われた暗黙のルールといいますか、世界観が昔から応用されているのだと思います。

ーー人間の知恵と身体を駆使した表現の大切さですね。文楽と同じように3人体制で巨神兵を動かすことになった経緯は?

尾上  最初は、ひとり(村本明久)で操演する予定でしたが、各部位の動きを細かくするために、複数で分担することにしました。主に3人、多い時で5人でやっています。頭の動きと足腰を使った大きな動きは一人が担当します。操演者はハーネスをつけて巨神兵の1メートルほど後ろに立つような格好です。 その腰からは重心を支える金属のロッドが巨神兵の腰の後ろへとつながっています。操演者の被ったヘルメットからは2本のロッドが巨神兵の後頭部に伸びています。操演者の頭の動きがそのまま巨神兵の頭部の動きに伝わる仕掛けです。足先からも巨神兵のかかとにロッドが伸びています。操演者が歩けば巨神兵も同じように歩き、左右を向くことも、しゃがむことも可能です。実際にやってみると、これらの基本動作の負担が大きく、手の動きが疎かになってしまったので左右の肩から先はそれぞれ一人づつで動かしました。他に顎を動かす担当と重量をニュートラルにするためにワイヤーで吊る担当者が必要でした。ロッドはブルーに塗られ、操演者はブルーのタイツを着ました。これは撮影後に青色の要素だけを抜き出し画面から消し去るためです。巨神兵と操演者達はブルーの幕(ブルーバック)の前で巨神兵を演じました。

ーー操演の仕事は、特撮の仕事をする上で、必ず経験する仕事なのですか?

尾上  そういうわけではありませんが、長く特撮の現場をやっている人は何らかの知識はあると思います。操演部はCGが登場するまでは特撮の花形パートでした。特撮の被写体は全て作り物で自分から動くことはありません。それら動かないただの「モノ」に命を吹き込む仕事ですね。飛行機や宇宙船を飛ばすのも、船を動かすのも、ゴジラの尻尾を動かすのも操演部の仕事です。私の師匠は鈴木昶という人で、かの円谷英二の懐刀と言われた人です。まさしく天才でした。ミニチュアや火薬や煙や炎だけでなく現場の雰囲気までもを鮮やかにコントロールするその姿にやられて弟子入りしたのです。ミニチュアの飛行機などを操演するときは「ミニチュアを動かすのではなくて、パイロットになったつもりでやれ。気分を出せ!」と厳しく言われました。攻撃する飛行機と負け戦で逃げる飛行機では気分を変えて操演します。すると不思議に飛び方が違って見えます。その頃の特撮監督が矢島信男さんです。鈴木さんが矢島監督に私のことを推薦してくれました。それで私は監督になることができました。操演部で培った技術とか発想が私の特撮監督としての基礎になっています。それが他の特撮監督の方と少し違うところかもしれませんね。

操演っておもしろい!
作り物の装置や人形、着ぐるみに、命の熱量、速度、強さ(時には脆さ)などを吹き込むことが操演の仕事。まさに俳優と並ぶ特殊技能である。
尾上さんが、「『文楽』というのは観劇のルールを観客に自然に意識させ、許容させなければ成立しないものなのではないでしょうか。これは特撮も同じです」と言うように、「ありえないことをありえるかもしれないとする想像力」こそが、芸術のおもしろさであり、人間の大切な能力でもある。
その一方で、作家の向田邦子さんは「目立ってはいけない黒子(くろこ)の抑制の中にほんの一滴二滴、遣う者の驕(おご)りがないまぜになって、押えても押えても人形と同じ、いやそれ以上の喜びや哀しみや色気が滲(にじ)んでしまう」と文楽の人形遣いについて書いていると、11月28日付けのmns産経ニュースにはある。
ありえないことをありえるように見せるための創意工夫が、見るものの心を打つ。大切なのは、人間の行為なのだ。文楽や特撮は、その、原初的な表現である。
江戸時代に発明された人形遣いの方法から、特撮につながって、海外にも伝わっていって……、こうして「巨神兵東京に現わる」で、さらにたくさんの人たちを熱狂させる。これって、ちょっといい話ではないか。

この創意工夫と技のバトンは、次世代にもつなげていくべきである。
(木俣冬)